見た物、そういう事は、よく分かる。

只、感情には、達しない。


自身が、自身の現状に値しない。


それぞれの状況に、具体的な何かしらがあり、それは、どんな状況も二度と繰り返されない。


ある時は進み、ある時は与え、ある時は淡々と受入れる。


向き合うのは、責務。

それは、何度もあるが、特徴付いた時、大切な何かに対して続く責務は、責任に変わる。


人は、環境によって否応なしに影響を受けるという。


体質や、性質、状況の偶然に、精神が免れる事は、出来ないのか。


私は、そんな事を探しているのかもしれない。

有り様が、がんじがらめに制限される状況で、何が違うのか。


各々に、その都度具体的に課された課題や、要請に向きあい、果たし、充たす義務を受け入れていく。これは、きっと、人それぞれで、類を見ない。一般論は、きっとない。


更に、その後、帳消しになる様な出来事が起こる事はない。それは、また、違う課題。


それは悲観的な事ではなく、それが常なのではないかと考える。


不条理な扱いを例え受けたとて、不条理に振舞って良い権利はない。

そんな至極当たり前の事を、外的な環境等により壊されてしまう事が大半な傾向なのは、致し方ないのか。


感情が鈍魔になってしまった場合、経験に縛られてしまうのか。


それは、もう一度学びなおさなければならない何かになってしまっていたのか。


私は、多分、色々な知識や、捉え方を探し、何か気付きを得る事で、育んだもどかしさを消化したいのかもしれない。


今、持ち合わせている資源で。