(画像引用元: amazon.co.jp

 

Amazon Prime他で視聴可。U-NEXT以外はレンタル料がかかります。

 

評価: 星星 星 (満点は☆5つ)

 

舞台は1967年、ベトナム反戦運動が華やかなりし頃のアメリカ。

自殺騒動を起こし、境界性人格障害(=ボーダー)と診断されて精神病院に送られたスザンナが、当初の自棄的な心境から社会復帰を決意して退院していくまでを描いたヒューマンドラマ。

 

<登場する主な少女患者たち>

スザンナ(ウィノナ・ライダー)

 そこそこ良家の子女で思春期前は優等生。

 自殺騒動で境界性人格障害と診断されるが…??

リサ(アンジェリーナ・ジョリー)

 思春期病棟一の古参。反社会性が強く、攻撃的。

 ‘関係の支配’が生きる術になっている。

ジョージーナ(クレア・デュヴァル)

 内気で高い感受性を持つが、空想虚言が過ぎて入院。

デイジー(ブリタニー・マーフィ)

 重度の摂食障害。自殺念慮もある。

ポリー(エリザベス・モス)

 顔と体に大やけどの痕がある。同調と協調で生きている。

 

 

原作はスザンナ・ケイセンの自伝 『Girl, Interrupted』。

日本では『思春期病棟の少女たち』というタイトルで

1994年に草思社から出版されている。

が、例によって私は未読。

 

この作品で、

名前だけは知ってたアンジェリーナ・ジョリーのお姿を

初めて拝見した。

と言っても、この記事を書くために映画サイトを見るまでは

30年前の大竹しのぶのような髪型をした主人公のスザンナを

アンジェリーナ・ジョリーだと思い込んでいた。

アンジェリーナは

ハタチ頃の土屋アンナに似てる人(リサ役)で、

スザンナ役は

製作総指揮を兼ねたウィノナ・ライダーという女優さんだった。

 

感想は、まず、

この主人公、境界性人格障害なんかじゃねーだろ

から始まった。

現代の感覚で見ると、外的な彼女は

‘自分は大人と対等に渡り合えると思っている’

背伸び中のハイティーンにすぎず、

家庭環境や親との関係から推し量れる内面では、

親の体面を維持するツールとして囲われている苦しさから

抜け出したいけど生活不安があって抜け出せない’、

焦りのただなかにいる普通の女の子である。

えり好みしつつ行う手軽なセックスも

焦燥と空虚をまぎらわす手段でしかない。

 

イージーな性行為をするかしないかは別にして、

もし彼女が境界性人格障害なら

世の10代のほとんどは何らかの精神障害持ちだろう。

彼女は、鎮痛剤とウオッカの同時大量一気飲みをやらかし、

「自殺未遂だ」「ノー、そんなつもりはなかった」と

頑固に?押し問答したために

境界性人格障害などという立派な病名をつけられてしまった。

 

1960年代後期のアメリカは、

すでに精神医療先進国と目されていたはず。

しかしこの映画を実録として観る限り、

現場の医者はどうやらまだ

人種的な偏見にミスリードされたままだったようだ。

つまり、

「まっとうであるはずの我々WASP(※)の子どもが

 親に心配をかけた」。

彼女を診断した医者と彼女の親の態度をみるに、

それだけで精神病認定する土壌があったように感じる。

(※WASP=ホワイトアングロサクソン・プロテスタント)

 

とはいえ、彼女はラッキーだった。

この映画がどれほど原作を忠実に再現しているか不明だが、

彼女が送り込まれた病院の思春期病棟は、

採光面積が大きくて明るく、

患者自身の選択に任された自由時間がとても多そうだ。

病院だから、限られた範囲でしか移動が許されないし、

入院患者の生活リズムを整えることに

重点が置かれてはいるけれど、

当時としてはかなり特殊(先進的)な病院だったに違いない。

天国かぃ、こんなんやったらワシも入院したいわびっくりと思った。

(医者も患者もタバコスパスパタバコ なのは「時代」である)

 

また、入院している少女たちの病状描写は

想像していたよりずっとおとなしめだった。

みんなが‘入院したて’ではなく、

傷つけてくるものから守られた形で

社会のリアルに直面することもなく(院内の小リアルはあるが)、

病棟で‘暮らして’いるから‘あの程度’で済んだのだろう。

彼女らは、比較的恵まれた環境の中で

投薬とカウンセリングを受けながら

自分の症状が寛解するのを待つわけで、

印象としては病院よりシェルターに近い

(但し、デイジーのケースに見るように、

 この時代のカウンセリングは

 本人と保護者の‘関係’をとらえるまでには至っていない。

 病気・症状はあくまで本人の心の問題とされていた)

 

映画は、退院していくスザンナの映像とモノローグで閉じられる。

病院生活での‘友だち’たちについて彼女はこう語る。

みんな上手く生きられないけれど、異常なんじゃない。

 揺れが大きいだけ」。

 

かつてスザンナは自分が異常か正常かを気にしていた。

自分をジャッジしてくる相手に怯え、牙をむき、

不安と混乱を深めて更に傷ついていた。

 

しかし実際のところ、生きていくうえで、

自分が異常か正常かはどうだっていいことなのだ。

他人に実害を与えながら周囲からは正常の範疇と目され、

シレッと生きている人間のどれほど多いことか。

もとより正常異常の区分は時代とカルチャーによって異なり、

言い換えれば

‘その社会の大勢の許容範囲内か否か’で

受け容れられたり弾きだされたりするだけの話だ。

(※脳の器質的な問題についてはややこしくなるのでさておく)

 

必要なのは

自分の時間感覚や空間感覚、身体感覚を獲得すること。

勉強部屋、子ども部屋という名の個室の有無は関係ない。

どこに行こうが何をしようが執拗に追いかけて覆ってくるものの

存在さえ薄くなれば、

完全に、ではないにせよ、

時間と空間と身体はその人のものになる。

そうなって初めて、

人は自分の未来の‘予定・計画・算段’を立て、整え、実行し、

大小のトライ&エラーを繰り返しながら次に向かうことができる。

 

その点でもスザンナはラッキーだった。

ある衝撃的な事件が

現実の身体感覚(自分の体と命に対する意識)を

スザンナに取り戻させ、

執拗に追いかけて覆ってくるものの存在をごく小さなものにした。

そして退院の決意を固めさせ、将来の方向を決めさせた。

家から離れたい娘と世間体を気にする両親の思惑が一致して

‘退院後はアパートで独り暮らし’が叶ったのも

彼女のメンタルにいい結果をもたらしたはずだ。

 

他方、スザンナ以外の少女たちはどうなったか。

私は、事件のトリガーを引いた張本人でありながら

「望みどおりの悪役としてふるまっただけ」とうそぶくリサや、

ジョージーナやポリーのその後が気になった。

とりわけ、手負いの獣という表現がぴったりのリサは、

自分の優しさや感受性を壊されすぎて、

それでも芽生える優しさなり感受性を

邪魔者として己自身で叩き潰すようになったかに見える。

姐御気質で地頭が悪くないあのタイプは、

寂しさを見透かす狡知に長けた外道にとりこまれると

担がれて凶悪犯罪一直線の女ボスになりかねない。

好みのタイプだから心配だ。

(アンジェリーナ・ジョリー、演技うますぎ)

 

 

なお、この映画は、

‘自罰傾向の強さの裏返しで親切心が強く、

かつ社会経験が少ない人’にはおススメしない

観るとしたら、自分にできることとできないことがわかってきて、

後ろめたさをかなぐり捨てられるようになってからでいい。