画像引用元:eiga.com

 

Amazon Prime他で視聴可。

 

無為な毎日を送っていた木野本郁男は、ギャンブルから足を洗い、恋人・亜弓と彼女の娘・美波とともに亜弓の故郷である石巻に移り住むことに。亜弓の父・勝美は末期がんに冒されながらも漁師を続けており、近所に住む小野寺が世話を焼いていた。人懐っこい小野寺に誘われて飲みに出かけた郁男は、泥酔している中学教師・村上と出会う。彼は亜弓の元夫で、美波の父親だった。ある日、美波は亜弓と衝突して家を飛び出す。亜弓は夜になっても帰って来ない美波を心配してパニックに陥り、激しく罵られた郁男は彼女を車から降ろしてひとりで捜すよう突き放す。その夜遅く、亜弓は遺体となって発見され……。(こちらも eiga.comより引用)

 

評価:星星星星 (4.5~くらい? 満点は星×5)

 

余韻として残った‘びっくり感’は

‘香取慎吾が主役だったこと’によるものなのかなんなのか。

香取慎吾のあの体格骨格と顔相、声質でなければ、

受ける印象も中間の展開も変わっていただろう。

ひょっとしたら脚本は

主役を先に決めての当て書きだったのかもしれない。

 

ともあれ、‘できすぎ’なセリフはあるものの、

‘出来事’が起こるタイミングや

演出の巧みさ(特に‘間’のとりかた)、

主だった役者陣の演技の巧さ、カメラワーク、

ナマ的迫力の乱闘シーンや無様さ描写のアクセントで、

最後まで一気に観てしまった。

 

途中、

「あ~、こんなんでなんとかなるんかいむかっ」と思った場面はあった。

もしそれで終わりまでだらだら行ってたら、

尻すぼみってことで私はかなり評価を落とした。

でもそうじゃなかった。それで終わりじゃなかった。

 

なお、

この映画はミステリーでもサスペンスでも犯人捜しでもない。

いわゆる底辺や反社組織が出てくる人間ドラマだ。

社会的には底辺じゃないが

巧妙にクズな部分を隠して生きてきて、

でも、あるきっかけで‘まっとうでありたい’と願い、

新しい家族を得て‘自分を立て直し途上’の人も出てくる。

 

苦しくて苦しくて

生まれ変わりたい救われたいと足掻いてる人に、

「生まれ変わるのも救われるのもあなた次第よ」と

正論を吐ける人には、観ても仕方がない映画。

たぶん腹が立つだけで、得るものは何もない。

 

地方住みゆえ、

これを映画館で鑑賞できなかったのがちと口惜しいが、

私は 観て良かった。

 

 

 

 

下矢印以下、ネタバレありの感想下矢印

 

 

 

 

小野寺(リリー・フランキー)

小野寺のような‘親身な世話焼き’は、‘田舎いるいる’。

現在進行形あるいは過去の長きにわたって地域的産業構造的に相互扶助が必要だったエリアでは、21世紀になるまで(一部では今もはてなマーク)結婚や葬儀などの慶弔イベントを親戚やご近所も一緒になって自宅内で行っていた。

なので、世帯主が70歳台以上でまだ健在のお宅にかかわる‘特に面倒見のいい人’は、その家の家族構成や親族筋の情報だけでなく、内部の間取りや、どこに何があるかまで‘家の中の人’のように把握しているのが普通である。

が、たまに、自分の好奇心や欲求(テリトリー支配欲はてなマーク)のほうが勝ってんじゃないかって人がいる。本人はそれを親切心や共同体の義務感からと信じていて、自分の行動様式と思考は、慣習に従って親や親族がしたりされたりしてきたことと(本人の中では)同じだから悪気がなく、自分が何に突き動かされているかなどとは考えもしない。

そういう人よりも、たとえその家の娘にかかわり続けたい欲望が動機としても、細やかによく気がつき、実際的に動ける小野寺はよっぽどありがたい存在である。しかし彼は‘自分の立ち位置’と‘力関係’にとりわけ敏感で傷つきやす過ぎた。

地域成員同士の距離が非常に近く、生まれてから今まで、同世代といえば保育所時代からの知己しかいないという地域において、よそ者に対する感情に整理がつかず、よそ者に対して、時にひどく親切で、時にひどく残酷といった「探りのような」ヒット&アウェイを繰り返す手合いがいるが、小野寺もその種の人間だったようだ。

彼はびっこをひいていた。映画の中では語られないが、彼のびっこの原因が東日本大震災にあったとすれば、首都圏から来た木野本郁男に、亜弓を横取りした‘テリトリー侵害者’として以上の嫉妬や憎しみを抱いても不思議ではない。

嫉妬は羨望と同居している。彼が郁男にした親切には、‘東京もん’(隔たりのある地方では、川崎も東京も同じである)と近しくなりたい欲求も後押ししていたのではないか。

怒りと劣情、復讐心から亜弓を殺し、亜弓の娘を郁男から遠ざけようと画策したのちも郁男が気になって仕方がなかった小野寺。

他者依存と‘善良な自分’への執着が強いがために、彼が自分の内にあるアンビバレンツ(両価感情)を、この先も認めることはきっと無い。

 

◆「こんなんでなんとかなるんかい」と思った場面

小野寺が逮捕され、あらためて亜弓の父・勝美と、亜弓の娘・美波の三人で亜弓が殺害された現場に花を供えに行った郁男の棒読みセリフ、

「みんな俺のせいだ……

 俺にはどうやったって償うことはできません……

 俺のせいで美波が独りぼっちになってしまって……」

からの~~

めそめそ置手紙を書いて駅に列車が到着して改札が開くまで。

お供え物の前で突っ立って、

甘えたような高い声で訥々と棒読みセリフを吐く香取(郁男)に、

こいつ殴ったろかパンチ!」と思った。

ここでそんなん言ってどうなんねんむかっ

俺のせいでって明らかにお前のせいもあるやろがむかっ

美波が独りぼっちになってしまってはてなマーク

親が殺された場所でそれ言うて、

子どもの傷口に塩塗るつもりかむかっと。

んなに「お前は悪くない」と言ってほしいのかむかっと。

ぎこちない文字で手紙を書いてるシーンもイライラしたし、

そのあとの、駅で郁男が列車を待ってるシーンでは、

ここで美波や爺ちゃんが駆けつけてきたらクソ映画認定してやると待ち構えた。

ところが、ここからが映画『凪待ち』の真価発揮

「殴ったろか」と思わせたのも、イライラさせたのも、

すべて、郁男の大きくゴツイ体に隠された、子どものような邪心の無さ、頼りなさを見せるための伏線だった。

しかも、出て行く前夜、手紙を書く郁男の元にかかってきた電話が

終盤怒涛の展開になるきっかけになっていた。

くそっ、こんなので……。卑怯だよ、白石監督。

 

渡辺健治(宮崎吐夢)

川崎時代の郁男の元同僚にして競輪友だち。

郁夫は職場内で虐められている健治を庇い、助けていた。

健治には、郁男といた時間と競輪が何より楽しく、救いでもあったのだろう。

しかし、ギャンブルによる多額の借金で消費者金融に追い回され、リストラで職を失った健治は、ついに虐めていた同僚たちを金属バットで襲い、重症を負わせて逮捕される。

逮捕されて連行される健治の表情には、ふっきれたような、あちらの世界に行った人のような、晴れやかな笑顔があった。

その笑顔を観て、「それでいい、やっちゃっていい、あんたにはその資格がある」と思った私はおかしいだろうか。

 

◆依存症者(addict)と郁男のこと

依存症者の治療に際しては、‘周囲がしてはいけないこと’がいくつかあるらしい。たとえば「説得、説教、すかし・おどし」、「世話焼き」、「後始末」、「先読み」などである。

専門書や専門サイトには、「それらは依存症者を手助けすることでかえって依存症の回復を遅らせてしまう周囲の人間の行為であり、総称して‘イネイブリング’と呼ばれている」と書かれている。

 

イネイブリング/e-ヘルスネット

 

郁男の内縁の妻・亜弓は説教し、

小野寺は何くれとなく世話を焼き金銭的な後始末(弁償)もし、

亜弓の父・昆野勝美はノミ屋の借金を肩代わりし、

ヤクザの事務所から郁男を五体満足のまま引き取る。

郁男の周りは、よかれと思って依存症者の依存の手助けをする

‘イネイブラー’だらけである。

イネイブラーでないのは「郁男はいてくれるだけでいいんだから」

と、郁男を慕う亜弓の娘・美波だけだ。

作中、郁男はアルコールとギャンブルに依存的な男として描かれている。依存症は、当人と周囲の社会的生活に支障をきたして初めて問題になり、「症」がついて病気と認定される。郁男は前の居住地・川崎でも暴力沙汰を起こして職場をやめざるを得なくなったり、自分の稼ぎじゃないカネで飲み食いして川崎競輪場に通う期間があったようだから、なんらかの依存症または社会生活不適合者のレッテルに近い存在だったのは間違いない。

ただ、なんらかの依存症または社会生活不適合のレベルが深刻なところにまで至ってなかったのが、この物語が物語として成立できた要件だと思う。

たとえばアルコール。深刻な依存症者は仕事の拘束時間中でも隠れてアルコールを摂取しようとする。社会生活では、受け答えのトンチンカンさや被害思い込みによる言いがかりで人間関係に破綻をきたす。しかし郁男には、肝臓ダメージによるむくみや顔色の悪さはあっても、仕事中の飲酒や受け答えのトンチンカンさが見られない。

次にギャンブル。アルコールやギャンブルだけでなく、何かに偏執的にのめりこみ依存的になってる人が、依存ツールを手に入れるために他人のカネに手を出すのはよくあること(肯定しているわけではないのであしからず)。問題になるのはここでも‘程度の差’である。郁男は生活費や亜弓のへそくりをくすね、ノミ屋の誘いでノミ屋からカネを借りて競輪に遣い、大事な船を売って「身辺をきれいにしろ」と勝美から渡されたカネまで勝負に賭ける。が、小野寺にカネを無心したり職場のカネを盗んだりはしていない。

そりゃ普通には、郁男はとんでもない不義理・信頼の裏切り・不始末をしでかしているのだが、とりあえずはギリギリの抑制が、まだ利いているのである。

けれど、郁男がもし、健治が起こした事件を知らずに亜弓の故郷を離れていたら、あるいは事件を知って川崎に向かっていたら、早晩、重度の依存症者になって死ぬか殺されるかしていただろう。

郁男があそこで何故きびすを返し、当てた穴車券を換金してくれなかったノミ屋に向かったのかはわからない。彼の中で何と何がつながったのか、彼にしかわからない。

‘取り返しがつく、つかない’の瀬戸際かもしれないし、

前夜、自分なりの復讐を果たして郁男に電話をかけてきた健治の「オレに優しくしてくれたの郁ちゃんだけだからさぁ」

というコトバの重みが、

郁男に無償の信頼を寄せる美波や

無骨ながら寡黙に郁男を受け容れようとしてきた勝美の存在と

重なったからかもしれない。

郁男に他者を支配・操縦するノウハウや嗜好が無く、自己認識に矛盾や乖離が無かったのは幸いだ。それらは本人ではなく身近にいる弱い立場の人間の精神を壊す。

元の心根が優しい郁男が、‘依存症者’から抜け出て‘生活者’に復帰できるかどうか、映画は描かず余白を残している。

そこがとてもリアルで、救いでもあった。