中には、一周忌が過ぎようと十三回忌が過ぎようと、供養は供養として、自分が動けなくなるまで続けてほしいとおっしゃるキトクな方がいる。しかし、半分以上は「月参りいらん」と言うきっかけを逃した人たちなのではないか。
そういう人たちの‘言えない恨み’は、どこにいくか。
陰での愚痴・ボヤキはあろう。でも、それはこちらに聞こえてこないからOKだ。
困るのは、月参りの連絡をする私に、声・応対のニュアンスで不服を伝える檀家さん。まるで私が押し売りをしているかのような気分になる。結構いるんだ、そういう人が。
そういう檀家さんにとって「明日うかがいます」と電話してくる私は寺の手先なんだろう。
たかが1時間足らずで3千円とりやがって、この野郎。てめえはすまして寺にいて、たまに電話かけりゃあいいんだろうが、こちとら690円のパート暮らしだよ。
ビシビシと、声にならない声が聞こえてくる。
だから、月参りが再開する9月。連絡のたびの向こうの声のトーンを想像して胃が止まる。
シツコさんに「電話かけがツラい」と言ったら、「私のときはみんな、どうぞお願いしますと気持ちよく応対してくれた」。
なんなの、この違い。