映画のラスト、

退院していくスザンナのモノローグ。

「みんな上手く生きられないけれど、異常なんじゃない。

 揺れが大きいだけ」。

この言葉は、

ホルモン分泌の急激な増加による‘内的欲求の拡大’と

‘見える社会の拡大’に心が追いつかない

成長期特有の状態をよくあらわしている。

残念なのは、彼女がそれを公に向けて言葉で表現したのが

実際に経験した年の20年近くあとだったことだ。

見方を変えれば、あの経験を言葉、文字にするには

20年近い年月を要したということだが、

もう少し早ければ、

その優れた直観に救われた‘かつての子どもたち’が

いたんじゃないかな、と。

たとえば70年代80年代を

正体のわからない内発的な苦しみと周囲の偏見にまみれて

生きざるをえなかったのは

思春期医療の知見の進捗に比べて

「生まれてくるのが早すぎた」ということなのか――と。

いささか苦い。

 

しかしながらこの映画の病院には

(美化されすぎてるかもしれないが)、

「定められた入院加療の期限が切れたので

決まりに従って否が応でも退院」ではなく、

寛解するまで待ってもらえる幸せがあった。

 

ただ、復帰‘すべき’社会(ティーンの場合は家庭や学校)が

元のまま、欲望や悪意に満ちたままだったら。

自殺しちゃったあの子の場合がそうだったし、

リサを待ち構える社会もたぶん典型的。

それを思うと

精神科・神経科治療なんて

対症療法がせいぜいだよねと

つい厭世的な気分になってしまう。