攻める防犯の考案者は、心理学者の出口保行氏。
・wikipedia
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E5%8F%A3%E4%BF%9D%E8%A1%8C
・東京未来大学の氏の紹介
https://humans.tokyomirai.ac.jp/post-107/
・防犯→攻める防犯
wikipedia
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%98%B2%E7%8A%AF#%E6%94%BB%E3%82%81%E3%82%8B%E9%98%B2%E7%8A%AF
・氏の闇バイトに関する記事
犯罪心理学者が警鐘 「闇バイトに手を出す子ども」を生んだ家庭で起こっていること
yahoo!
https://news.yahoo.co.jp/articles/8dcebbe9a4e5305c42054aa8ea1c2010477df1c5
引用、まとめ。
・高圧的な親の影響を受け、権威に疑いを持たず、素直で忠実な性格。
・家庭でのコミュニケーションが少なく、言葉の裏を読み取るといった想像力などがあまり無い。
・事前予見能力が乏しい。
以下、私見。
①攻める防犯と集団ストーカーの戦略との共通点
(1)子どもを利用
現在、日本の大人は子どもに声をかけただけで逮捕されるリスクがある。
私は攻める防犯対策として、また、集団ストーカーの子どもたちが犯罪に加担しなくて済むよう、かなり気を使ってきた。
主に平日義務教育中に外出し用事を済ませ、学校や子ども関連の店を避け、子どもが映っているSNSは極力観ない。
ただ移動経路には高齢者の他に、義務教育前の子どもを連れた保護者がよく現れる。
私は攻める防犯の対象者ではなく不審者登録されていないから、一般的な日常風景が展開しているのか?
それとも集団ストーカー達が自分の子どもを利用してターゲットを不審者登録しようとしているのか?
(そもそもストーカー達の子どもだとして、養育費は? 仲間の子どもを借りてきたのか?)
子どもを利用したストリートシアターはたまに見かけるが、同級生やママ友に撮影されてSNSグループでネタにされたらどうするのだろう?
(2)防犯側になり信用確保
子どもは知らない大人を不審者と考えるよう教育されている。
例外は防犯パトロールや自治会の構成員、教師や塾の講師、店員、警察などの公務員、交通機関の運転手などだ。
おかしな点は、最近これらの大人による子どもへの性犯罪や誘拐などが多発していること。
職業などに従事するにあたり、身元調査や適正確認、教育を行なったはずだ。
「子どもから怪しまれない大人」として、犯罪者と予備軍、彼らに情報提供する集団ストーカー達が紛れ込んでいないか?
警察と自治体の標語「いかのおすし」を替えてみる。
「知らない人にはついて(イカ)行かない」
→知っている人にはついて行ってもいい。
→集団ストーカー達が見知った大人だったら?
「知らない人の車に(ノ)乗らない」
→知っている人の車や青パトには乗っていい。
→青パトは私用車で、青色表示灯を外すと区別できなくなる。運転手が誘拐グループと通じていたら?
「危ないと思ったら(オ)大声を出す(大声で叫ぶ)」
→見知った大人には警戒心が薄れ、危険を認識しにくい。
ジャニーズ被害参照。
「今いる位置が危険だと思ったら安全な場所へ(ス)すぐ逃げる」
→集団ストーカー達に囲まれたら?
「危ない目にあったら、すぐ大人に(シ)知らせる」
→知らせた大人が集団ストーカーだったら?
埼玉県で否決された法案は、低学年までは保護者が送迎し付添うというものだった。
欧米や中国など誘拐が社会問題化している地域では子どもを一人にすると罰則があるため、家族やベビーシッターなどの付添は当たり前だ。
日本でも導入されるかもしれない。
②闇バイトと集団ストーカー家庭の子どもとの共通点
うまい説明が思いつかない。
当ブログを読んでいる集団ストーカー二世・三世がいたら、考えてみてほしい。
・自分や子どもは、闇バイトに引っかからないか?
・集団ストーカー自体が闇バイトと同じではないのか?
③集団ストーカー関与者のカウンセリング
心理学者、子ども心理の教育者、攻める防犯考案・推奨者、民放テレビで知られている出口氏。
そしてその支持者である警察や公安、教育関係者、地方自治体や自治会関係者など。
まずは攻める防犯は適切か、効果はあるのか、悪用されていないかなど現状分析をしてほしい。
その前に自分達がカウンセリングを受け、適切に分析できるか診断してもらってはどうか。
攻める防犯による被害者を放置し、確信を持って現状維持しているのだから。
次に、集団ストーカー達のカウンセリングを行なってほしい。
特に子どもたちは無理に関与させられ傷ついており、普通の人間関係や未来を失いつつある。
氏が述べたように、失敗は誰にでもあるのではないか?