真名野長者伝説~般若姫伝説へ

  
般若姫誕生
長者夫婦に可愛らしい娘が生まれ、玉世姫と名付けられた。
姫は、すくすくと育ち、とても美しい女性になった。その噂は、都にも伝わった。
  
姫は、内山観音の申し子として、「般若姫」と呼ばれるようになった。


山路 (さんろ)

     
ある日、長者の館に奉公人として働かせて欲しいと熱心に頼みに来た青年がいた。名を山路と言った。
山路は、普通の人と違う何かがあった。
奉公人の管理人は、人手が不足してたこともあり山路を雇った。
山路の仕事は、草刈りと牛飼いになったが、いつも笛ばかり吹いていた。

都では、欽明天皇の皇子、橘豊日皇子(後の用明天皇、聖徳太子の父親)の妃となるべき女性を探していた。

ある時、殿上人の集まりで、「豊後国の内山の長者の娘がとても美しい、候補にしよう」となった。
さっそく真名野長者のもとに勅使がやって来た。
しかし長者は「般若姫は観音の申し子である」と勅命にも従わなかった。

朝廷は、なんとか従わせようと、数々の難題を吹っかけるが、長者は財力と権力でことごとく解決するため、困り果てていた。
      
朝廷は、占い師に相談すると「宇佐八幡の放生会を長者に執行させよ」と言われ、さっそく長者に勅命を下した。

勅命を受けた長者は困った。
放生会に必要な流鏑馬の古式を知るものがいなかった。
そこで長者は「古式を知っているほどの人物なら、般若姫の婿にしよう」と言いきった。
すると、奉公人の山路が「僕が出来ます」と名乗り出た。
       
山路は、立派に流鏑馬の古式を披露し放生会は滞りなく行われた。そして、般若姫の婿になった。
しばらくの間般若姫と山路は幸せに暮らした。
        
家族全員が参加している般若姫ご懐妊お祝い会の席で、突然「八幡神」が出現し「皇子よ早く都に戻るのだ天皇が危篤だ」と告げた。長者も般若姫もその場に居た全員が驚いた。
山路の正体は、欽明天皇の皇子、橘豊日皇子(後の用明天皇)だった。
                 
欽明天皇

         橘豊日皇子(後の用明天皇)
山路は、いや橘豊日皇子は、般若姫との別れが辛かったが、勇気を出して言った。

「もし、生まれた子が男の子だったら連れて上京しなさい。女の子なら、長者の世継ぎとして残し、姫一人で上京しなさい」と言い残し、皇子は都に旅立った。
      
般若姫は、可愛いい女の子を産んだ。「玉絵姫」と名付けた。
暫くして、般若姫が都へ旅立つ日となった。

皇子の言う通り、幼い玉絵姫を長者夫婦に託し、大小の船百二十隻、千人余りが同行して豊後臼杵が浦より出航した。
     
長者夫婦は般若姫との別れの際、一寸八分の黄金の観音像を手渡した。
      
出航してから順調だった天気は、周防の国の平群島付近で大暴風雨にあい、多数の人が死んでしまった。
    
嘆き、悲しんだ般若姫は、自ら荒れ狂う海の中に身を投げた。
    
すると、海は穏やかになり、雲がスーッと消え去り太陽が輝いた。

般若姫は、海から引き上げられた。
しかし、間も無く息を引き取ってしまった。

姫は、死ぬ間際、「あそこに見える山に葬って下さい」と遺言を残した。

姫の訃報を聞いた長者夫婦は、とても悲しみ、臼杵に石仏群を作った。
     
後に橘豊日皇子は、用明天皇となった。

天皇は姫の遺言により、瀬戸内海を一望する「神峯山」の頂上に、「般若寺」を建てた。

また、般若姫が入水した近くで、大漁の魚の中に金色に光る魚の腹の中から、一寸八分の黄金の観音像が出てきて、聖徳太子のもとに届いた。聖徳太子は、もとに戻すべきとして、長者へ送った。

 

以上が真名野長者及び般若姫伝説です。
長文お読み頂きありがとうございました。少しでも多くの般若姫伝説ファンが増えることを願っています。

 

追記

聖徳太子から送られた、一寸八分の黄金の観音像は現在も内山観音で保管されている。
 
用明天皇は、聖徳太子の父親でもある。聖徳太子は、類い稀な能力の持ち主である。
般若姫は、もしかすると男女の双子を産んでいたかもしれない?

 

地元の50歳以上の人は、この伝説を知っていましたが、20歳代の人は知りませんでした。とても残念なことです。

下の写真は、般若姫の巨大な像。
     
バブルの頃、町興しとして建造されたそうです。

 

https://www.takeyoi.com/usuki-takeyoi/

 

今でも、うすき竹宵として毎年般若姫を供養している伝統に感動します。時として伝説は現実と錯覚します。まるでキリストや仏のように。では、また。