オクタビオパスの詩論『弓と竪琴』を読んだ。
パスによれば作家の文体とよばれるものは個人の才能すなわちポエジーに帰されるものだという。文体は任意の作家達亡き後、スタイルとして記憶・記録され、擬古典派の人々が後代になり模倣するのだろう。
湯浅博雄著『ランボー論』の冒頭によると、ランボーは人々が自らの所有と勘違いしている詩才や諸々の個人に固有だと勘違いされている感じ方とは違った新しいものを目指していたという。
ランボーもパスも天才でてが届かない私はスタイルを支持する。過去に書かれた文体、いま現れつつある文体を完璧に模倣することに力を注ぐ。
あらゆる女を知っている男には固有の文体などなく女が何をすれば喜ぶのかを知っている。模倣が模倣に終始しないように気をつけなければなるまい。
19世紀象徴派詩人ステファヌ・マラルメの散文詩「未来の現象」を読んでみた。よくわからなった。ものじたいの写生ではなく印象を書き留めている、そういう感じだ。現象(phenomene)には花嫁の意味もあり、「未来の花嫁」とも読めるがそれは深読みのし過ぎか?夕日が水平線のにある川へ沈んでいき、木の葉のことが書いてあり、テントのことが書いてあり、街灯の下に実を結ばない(inpregnant)女性がいて、男といてテントの中では、美しい女性を見せ物にしている。客寄せがいて、最後に呪われた詩人のことが書いてある。
誰か意味を教えてください。マラルメ読み出すとくせになることはなんとなく感じた。
仮面のことをペルソナと呼ぶ。ペルソナは対他的な自我の存在様式である。母の前での所作・振る舞い・態度と会社での所作・振る舞い・態度…といったように我々はキャラを演じ分ける。その演じ分けられたキャラをペルソナという。文学作品や絵画の学派、音楽のジャンルのようにペルソナも無際限にあるのではなく場(milieux)に応じて数が決まる。仏教に十界という考えがあり、人間の体から心に至るまでのあらゆるものは地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏の十の領域のいずれかにおさまり、常に物欲に支配されているような心を餓鬼といい、他者を蹴落としてでも利得を得ようとする心を修羅という。この中で道理や知識、知的な好奇心を満たし自分だけ悟りを得ようとする心がある。声聞である。世の中の学者は皆、声聞である。学者が人にものを教え導くのは声聞のペルソナをつけているのだろう。一方でただひたすら人に尽くし悩みから解放することだけを考え、実践するのが菩薩である。人を救う人、助ける人、守る人、喜ばせる人はみな一面的には菩薩であろう。ただしボランティアや治療行為、なにか庇護、すべてのサービスをする「菩薩」を前にして、ペルソナを外したの素の顔の他者を見たことがあるだろうか?不信の眼で、私の心の真意をどうにか測ろう(sound)とする眼であった。世の中には素のそんな不信の眼が石ころのように転がってる。