オクタビオパスの詩論『弓と竪琴』を読んだ。
パスによれば作家の文体とよばれるものは個人の才能すなわちポエジーに帰されるものだという。文体は任意の作家達亡き後、スタイルとして記憶・記録され、擬古典派の人々が後代になり模倣するのだろう。
湯浅博雄著『ランボー論』の冒頭によると、ランボーは人々が自らの所有と勘違いしている詩才や諸々の個人に固有だと勘違いされている感じ方とは違った新しいものを目指していたという。
ランボーもパスも天才でてが届かない私はスタイルを支持する。過去に書かれた文体、いま現れつつある文体を完璧に模倣することに力を注ぐ。
あらゆる女を知っている男には固有の文体などなく女が何をすれば喜ぶのかを知っている。模倣が模倣に終始しないように気をつけなければなるまい。
パスによれば作家の文体とよばれるものは個人の才能すなわちポエジーに帰されるものだという。文体は任意の作家達亡き後、スタイルとして記憶・記録され、擬古典派の人々が後代になり模倣するのだろう。
湯浅博雄著『ランボー論』の冒頭によると、ランボーは人々が自らの所有と勘違いしている詩才や諸々の個人に固有だと勘違いされている感じ方とは違った新しいものを目指していたという。
ランボーもパスも天才でてが届かない私はスタイルを支持する。過去に書かれた文体、いま現れつつある文体を完璧に模倣することに力を注ぐ。
あらゆる女を知っている男には固有の文体などなく女が何をすれば喜ぶのかを知っている。模倣が模倣に終始しないように気をつけなければなるまい。