千葉佐那を全く知らないブロ友さんもいたので、小説・漫画・テレビドラマなどの作品情報をWikipediaから切り貼りしておきます。

これだけ有名な人なんですよ(笑)

 

 

 

 

 

 

さて、本題。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
高本薫明氏が『土佐史談』一七〇号に掲載した千葉佐那自身の証言談話。
 
龍馬との関係などについて語られています。
 
「私は幕末神田お玉ヶ池で北辰一刀流の道場玄武館を開いていた千葉周作の姪にあたり、父は周作の弟で桶町で道場を開き、桶町の千葉道場、また小千葉といわれていた千葉定吉の次女で、姉は夭折し、兄と二人の妹がありました。
土佐の坂本さんが私の家に入門してきたのは、嘉永六年四月で、坂本さんは十九歳、私は十六歳の乙女でした。坂本さんは翌年六月には帰国し、安政三年八月に再び私の道場に参り、修行に打ち込んでおりました。さらに一年滞在延期の許可を得たとかで引き続いて道場に滞在し父は坂本さんを塾頭に任じ、翌五年一月には北辰一刀流目録を与えましたが、坂本さんは目録の中に、私達三姉妹の名を書き込むよう頼んでおりました。父は『例の無いことだ』と言いながら、満更でもなさそうに三姉妹の名を書き込み、坂本さんに与えました。
坂本さんは二十四歳、私は二十一歳となり、坂本さんは入門した時からずいぶん大人っぽくなり、たくましい青年になっておりました。私も二十一歳ぽつぽつ縁談の話もありましたが私は坂本さんにひかれ、坂本さんも私を思っていたと思いますし、父も坂本ならばと高知の坂本家に手紙を出したようでした。坂本さんはその年の九月国に帰り、再び私の道場へは姿を見せませんでした。兄重太郎に聞けば勝海舟の門下生となり、勤王運動に参加し、江戸に来ても道場に来る間も無いだろうとの事でした。私は心を定めて良い縁談をも断り、唯ひたすら坂本さんを待ちましたが、忘れもしない慶応三年一二月、三十一歳なっていた私は坂本さんが一一月一五日京都で暗殺された事を知らされました。(中略)
私を世話してくれる人があって、明治十五年九月学習院女子部に舎監として奉職しておりました。その頃(明治十六年一月二四日)から高知土陽新聞に、坂崎紫欄という方が坂本さんの事を「汗血千里駒」という題で書き始め、後には単行本として出版され大変人気になりましたが文章の中に坂本さんが師匠周作の娘光子と恋仲であったという部分があります。坂本さんは伯父周作とは無関係で、光子という娘もありませんでした。多分私の事を書いたんだと思います。(紋服は)父が坂本さんに贈るために染めました。事に奔走し道場へもあまり来れなくなり私が切り取り、形見として持っています。「汗血千里駒」の誤りを正すため学習院でもずいぶん人に見せましたよ。
明治十八年九月、学習院女子部が華族女学校となり、校長に土佐出身の谷干城中将が就任し、引き続き勤務しておりましたが、谷中将が農商務大臣となり、教授下田歌子が校長の代理となりましたのを機会に学校を辞職し、千葉家に昔より伝えられている家伝灸を施して細々と暮らしております」
 
 
 
 
 
佐那は明治二九年一〇月一五日、享年五十九歳で亡くなった。
佐那は東京谷中で土葬されたが、身寄りがなく無縁仏になっていた。
灸治院へ通っていた自由民権家小田切謙明の妻・豊次が哀れみ、小田切家の墓地のある山梨県甲府へと分骨され、小田切家の墓所がある清蓮寺に今もねむっています。
その墓石に刻まれた文字(「坂本龍馬室」)が龍馬と佐那、二人の交情を影ながら現在へも伝えられています。
 

 

 

甲府市観光情報よりコピペ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

現在でも、千葉さな子杯剣道大会があります。拾い画。

 

 

 

 

次で千葉佐那シリーズは終わりとなりますが、次回は新選組のふるさと日野市を初め全国で公演された、有名な幕末歴史家「あさくらゆう氏」さんの執筆が主体となりますので乞うご期待。