藤圭子さんが亡くなって、今年の8月で10年の節目の年になるので、少し採り上げてみました。

 

 

北海道総合月刊誌より

 

藤さんは1951年、岩手県一関市で地方まわりの浪曲歌手だった父・松平国二郎さん(本名・阿部壮)と、目が不自由な三味線奏者の母・竹山澄子さん(同・阿部澄子)との間に、巡業の途中、3人きょうだいの末っ子として生まれた。
一家は、藤さんが生後まもなく渡道。3歳のときに旭川に移り住んだ。生活は苦しく、道内や東北を中心に旅回りをし、祭りや炭鉱、寺の本堂、旧家の大広間などで歌をうたい、その日暮らしをしていた。
仕事がないときは、長女に乳飲み子の藤さんを背負わせ、澄子さんは三味線を抱え、国二郎さんは長男・博さん(のちの歌手・藤三郎)の手を引き風呂敷包みを背負いながら、一軒一軒営業のために農家をまわった。
忠別橋たもとのサムライ部落で生活していた際には、「冬、下駄で忠別川の氷を割って、おしめを洗っていた」と当時の様子を知る人は話す。

戦後の混乱期を象徴 旭川の「サムライ部落」

 かつて旭川市街と神楽町を結ぶ忠別橋上流の河川敷に「サムライ部落」と称される住宅群があった。住宅と呼ぶのもはばかられるような粗末な建物が多かったが、昭和20年代には最高で53世帯、約200人が暮らしていたという。先ごろ亡くなった歌手の藤圭子さんの一家も一時、ここで雨露をしのいでいたと言われるが、その〝集落〟ではどんな生活が営まれていたのか─。

記録に残っていない〝集落〟
初めに断っておくが、「サムライ部落」とはあくまでも当時の通称。役所では「厚生部落」と呼称されており、関西のいわゆる被差別部落とはまったく性格を異にする。今風に言えば、粗末ながらも居を構えるホームレスたちの小さな集落と言えるかもしれない。
サムライ部落と称されるものは、旭川のほか札幌や函館、小樽にもあった。一番知られているのが札幌白石地区の河川敷にあったもので、昭和初期から札幌冬季五輪が始まる40年代中頃まで150世帯ほどの集落を形成していた。
サムライ 歴史の中に現実に存在していながら、どこの街でも記録としてはほとんど残っていない。旭川でも旧旭川市史に若干触れられているだけで、本誌が今回この記事を書くために、市に「サムライ部落に関する記録はないか」と問い合わせてみたところ、「関根さんの著書に書かれているくらいで、その他の記録はない」との回答だった。
その「関根さんの著書」とは、元旭川市議会議長の関根正次氏がまとめた「旭川の橋」(旭川叢書、1991年刊)のことで、「忠別橋」の項には次のように記されている。
─(サムライ部落は)大正末期か昭和初期には既に相当数の人家があったようで、さらに戦後は引き揚げてきて住居に困った気の毒な人たちも住みつき、昭和29年には38世帯が生活を営んでいたようで、ちょっとした町内会並みであった。
河川改修や美観上の問題から昭和39年5月に、旭川市の斡旋で17戸が他の地区へ移転、残りは新築等自力で転居していった。しかし、その直後から2軒の自動車部品販売業者が住みつき始め、ポンコツ車を山積みしていた時期が続いた。
昭和58年7月に、忠別橋(4代目)の拡幅工事着工に伴い、この2業者も行政指導に従って移転していった。山積みのポンコツ車は、粗大ごみ扱いで河川管理者の北海道開発局によって処分された。
今は見事な河川公園となっている河川敷であるが、実に今昔の感に耐えない─
著者の関根氏に話を聞いてみたが、この記述は主に忠別橋の近隣に住む人への聞き取りでまとめたもので、その時もやはり記録らしいものは残っていなかったという。なぜか、行政にさえ文献はないというサムライ部落。このまま旭川の歴史から忘れ去られていくのだろうか。
やがて藤さんも家族を支えるため、7歳ごろから両親と一緒に演歌の流しを始めた。マイナス20度の厳寒の折でも、膝まで雪に埋もれながら、何時間も歩き、寺の軒先や床下で寝ることもあった。
藤さんは小学校を何ヵ所か転校したが、大有小4年のときの担任だった小田栄一郎さん(81)は、同校に編入してくる際、在学証明書を一度に4、5枚も重ねて提出してきたことにまず驚かされる。
旭町にあった住まいは、畳もなく、床がむき出しになった状態で、裸電球が一つぶら下がっていたにすぎない。それでも家族5人寄り添いながら暮らしていた。
近くに住んでいた小林芳子さん(87)は、長男の三郎さんと藤さんが納豆や豆腐を売り歩いていた姿を記憶。殿村真紀子さん(64)は「自分から明るくあいさつしてくることもあれば、声をかけても何もしゃべらないことがあり、あのころから躁鬱の気があったかもしれない」と振り返る。
貧しさのせいか、ある年のクリスマス、近くの菓子店で姉妹2人そろってケーキをごっそり「拝借」してしまったことは、知る人ぞ知る語り草になっている。
遠足など費用のかかる学校行事はすべて欠席。服装は一年中、穴のあいた同じものを着てくるほど生活が困っていた様子で、靴もゴムの底が「カッパカッパ」と音を立て、取れそうだった。

 

 

 

凄い人生というか、苦しい生活だったでしょうね。

昭和25年には生活保護法制定されているのに、受給していなかったのだろうか?

 

 

 

 

それに対して

作られた虚像という人も・・・

1960年代末、日本が高度経済成長のピークに向かい、国民のほとんどが豊かになった時、時代錯誤な不幸な少女 藤圭子が登場したのは、明らかに作られた戦略であったはずだと、色々巷では言われていますが、真偽はどうなんでしょうかね。

 

 

 

 

はい、本題。

他の歌手のヒット曲も幅広くカバーしており、多くの曲で本家を凌駕する歌唱力と表現力を発揮したと評される。

[うそ]をカバーされた中条きよしは「こんなにうまく歌われたらたまんないよ」と作曲した平尾昌晃に伝えたようです。

平尾昌晃も「僕は歌手を続けるかどうか迷っていたけど、彼女の声を聴いた瞬間に『やられた!』と思った。こういう子が出てきたのなら、僕は作曲家に専念しようと。

 

 

拾い動画

聴き比べ。

 

 

 

本家本元