ゼロの昭和軍事ネタ。

 

三つの奇跡をおこした樋口季一郎中将。

 

 

 

 

 

前回はソ連(現ロシア)から北海道を死守した一つ目の奇跡を紹介しましたが、今回は二つ目の奇跡を紹介します。

 

みなさんが知っている有名な、リトアニアの日本国総領事館に赴任していた杉原千畝が、ナチス・ドイツの迫害から逃れてきた多くのユダヤ難民を救出した逸話は、「東洋のシンドラー」として国内外に広く知られています。杉原が救ったとされるユダヤ人は約6000人。

 

杉原千畝

拾い画

 

 

 

 

本家のオスカー・シンドラーは約1200人。

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ドイツによるユダヤ人迫害で「ヒグチ・ルート」と呼ばれた脱出路で2万人から3万人(諸説あり)を救出。

教科書にも載っていません。もちろん学校でも教えていません。

少数の軍事オタクだけが知っている真実(笑)

 

杉原千畝「命のビザ(通過査証)」を出す2年も前の話。

 

オトポール事件。

満州国(日本政府が中国東北部に作った傀儡政権国家)とソ連の国境に位置する都市です。

1938年3月、その地に大量のユダヤ難民が押し寄せました。

ドイツにいたユダヤ人の多くは国外へと逃げ出しますが、周辺国はナチスの目を気にしてユダヤ難民を受け入れてくれません。
そんな時に、ユダヤ難民を労働力として利用しようとした卑怯者ソ連が一時は入国を認めましたが、工業者・技術者が多かったユダヤ難民に農業をさせようとして失敗。労働力としては思うように使えないと分かると途端にソ連滞在を拒否。

スターリンもプーチンも違いはないですな。
ユダヤ難民は新たな地を求めて彷徨うこととなりました。

そこで、たどり着いたのがソ連と満州国の国境にあるオトポールという地でした。
ユダヤ難民はオトポールから満州国に入国し、当時唯一ビザ無しでユダヤ人を受け入れていた上海に抜け、
そこからアメリカやオーストラリアへ亡命することを望んでいた。


しかし、満州国はユダヤ難民へのビザ発給を拒否。
なぜなら、満州国は日本の傀儡政府であり、その日本は、当時ドイツと親密な関係にあり(1936年日独防共協定)、1937年から続く支那事変(日中戦争)の仲介をドイツに依頼していたほどの関係だったので、満州国がユダヤ難民を受け入れることで、ドイツの国策(ユダヤ全滅政策)に反対したとして日本とドイツの友好に悪影響を及ぼすことを不安視していたのです。


当時、満州国で日本(関東軍)の特務機関長として勤務していた樋口季一郎は人道的見地から、直ちにビザを発給するよう満州国外交部に対して指示。

同時に、南満州鉄道総裁に難民を移送するための特別列車の手配を要請。
部下に外交上の手続きと現場での実務を命じ、満州在住のユダヤ人カウフマン博士に食糧・衣服を調達させるなど、おそるべき速さで対応をしていきます。

 


オトポールは3月でも極寒です。
マイナス20℃を越えるような地で立ち往生するユダヤ難民を救う為には一刻の猶予もないとの判断だったのでしょう。


彼の尽力によりユダヤ難民たちには、5日間の満州国滞在ビザが無条件で発行された。
多くのユダヤ難民ナチスの弾圧から、そのビザを使って満州国を抜け、上海や、またはそこからアメリカやオーストラリアへと亡命することができました。

 

ヒグチルート

拾い画

 

しかし彼のこの判断は、後に物議を醸しだします。
・満州国という一応独立国に対して、外国である日本人が口出しをしたということ。
・日本政府の判断ではなく、一軍人の彼個人の独断、独走であったこと。
・ドイツと日本が親密であったこと。
これらの側面が絡み合っており、国内では褒められるどころか大問題になり、処分を求める声の方が大きくなった。もちろん彼自身も、その決断・進言をした自分はもう軍人としての道が終わってもいいという覚悟を持っていました。


実際に、オトポール事件を受けて、ドイツは日本政府に対して公式の抗議書を突き付けてきました。
動揺した日本政府は、抗議書を陸軍省へ回送し、陸軍省から関東軍司令部(満州に駐在する軍)へと回されてきた。それを知って、彼は関東軍司令官植田謙吉大将にこう書簡します。

〈小官(=私)は小官のとった行為を、けっして間違ったものでないと信じるものです。満州国は日本の属国でもないし、いわんやドイツの属国でもない筈である。法治国家として、当然とるべきことをしたにすぎない。たとえドイツが日本の盟邦であり、ユダヤ民族抹殺がドイツの国策であっても、人道に反するドイツの処置に屈するわけにはいかない。

しかし関東軍からさらに処分を求める声はさらに高まり、遂には関東軍司令部の参謀長東条英機(のちに総理大臣)に呼び出され、事情聴取されます。

そこで、樋口季一郎は上司である東条英機の前で毅然と言いのけます。

「参謀長、ヒトラーのお先棒を担いで弱い物いじめすることを正しいと思われますか」

この一言で、東条英機は樋口季一郎を不問に付し、ドイツに対して「当然の人道上の配慮によって行なったものだ」と返答したのでした。

 

なぜ樋口はユダヤ人難民を救ったのだろうか。オトポールでの救済の直前、1937年12月にハルビンで開かれた「第1回極東ユダヤ人大会」で樋口はユダヤ国家建設に賛成するあいさつを行うなど、ユダヤ人の境遇に理解と憐憫の情を示していたことが大きい。

 

第1回極東ユダヤ人大会の宣言・決議は入った樋口の革製ホルダー

 

 

 

 

樋口は1919年に特務機関員として赴任したウラジオストクでロシア系ユダヤ人の家に下宿。ユダヤ人の若者と毎晩語り明かして親交を深め、ユダヤ問題を知った。ワルシャワ駐在陸軍武官として25年から赴任したポーランドでは、弾力性ある国際感覚を身に付けたが、人口の3分の1を占めたユダヤ人が差別と迫害を受けるという流浪の民族の悲哀を垣間見た。

 

ユダヤ人問題を知ったウラジオストク特務機関員時代の樋口中将(前列右端)

 



一方、有色人種への差別意識が強い中で、樋口をはじめ1921年からワルシャワに駐在した海軍の米内光政、樋口と同じく25年に暗号解読技術習得のため留学した陸軍の百武晴吉らをユダヤ人が下宿させ助けてくれた。この厚遇を忘れなかった樋口は、隆一氏に、「日本人はユダヤ人に非常に世話になった。彼らが困った時に助けるのは当然だ」と話している。

 

各国の武官と親交を深めたワルシャワ駐在時代の樋口中将(前列右端)

 

 

 

 

 

 

エルサレムにある団体、ユダヤ民族基金には、ユダヤ民族に貢献した人を記す資料がある。「ゴールデンブック」

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ゴールデンブックの中に、樋口の名前がある。

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膨大な文字数のブログになりましたが、前回のブログで樋口に野望を挫かれたスターリンは、連合国軍に対して樋口を戦犯として引き渡すように申し入れた。

特務機関員としてソ連に滞在していたため、スパイ罪を適用させる計算でした。

しかしマッカーサーが拒否。

拒否した理由は、その窮地を救ったのが、樋口に命を救われたユダヤ人たち。

世界ユダヤ協会(本部はニューヨーク)が、ソ連の要求を拒否するようアメリカ国防総省に訴えて、国防総省がマッカーサーに圧力をかけ、樋口に対する戦犯引き渡し要求は、立ち消えになりました。