日本中が泣いた純愛物語。

 

15年ほど前に買った本で、実在の物語。

 

 

 

 

 

この本の写真はこれだけ。

下の写真の横顔は、映画になった吉永小百合さんに似ている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以上が目次で、文通内容は220ページに及びます。

 

目次を見たらだいたいの内容は分かると思いますが・・・

1941年(昭和16年)生まれの河野實(マコ)さんは、大学を目指して浪人中だった19歳の1960年(昭和35年)の7月、耳の手術のため大阪大学病院に一ヶ月ほど入院。マコはそこで兵庫県立西脇高校在学中に軟骨肉腫という不治の病を発病し、入退院を繰り返していた一歳年下の大島みち子(ミコ)さんと出会います。

阪神タイガースファンの二人は意気投合して文通が始まり、翌年にマコは東京の中央大学に進学。

ミコは京都の同志社大学に進学して文通を始める。

 

マコは大阪駅でビールの販売アルバイトをしながら何度も大阪大学病院にお見舞いに行ったり長距離電話してミコを励ましていた。

文通は、1963年(昭和38年)8月にミコが21歳で亡くなるまで続きます。3年間で交わした手紙は400通余りになったようです。
二人のやり取りした手紙は、ミコが亡くなった年の暮れに大和書房から往復書簡集『愛と死をみつめて―ある純愛の記録』(大島みち子・河野実著)として出版された。



河野さんは、結婚を機に『愛と死をみつめて』を絶版にされ、現在も生存されています。

結婚しなければ、さらによい物語と思うゼロです(汗)

やっぱり時が経つと変わるのだろうな。

 

 

拾い画。

新聞にも掲載されたようです。

 

 

拾い画。

大島みち子さんと、河野實さん。

 

 

 

日活映画。

          

 

 

 

 

第6回(昭和39年・1964)レコード大賞受賞曲。
愛と死をみつめて 青山和子。

          

 

 

軟骨肉腫(chondrosarcoma)は、組織学的に腫瘍性の軟骨形成を伴うが、腫瘍性の類骨・骨形成を伴わない悪性骨肉腫です。

20年前までは治療方法が確立されておらず、腫瘍を単純に摘出し、結果的に再発や転移を繰り返していました。当時の骨肉腫の5年生存率は10-20%しかありません。

この物語は60年ほど前のことだから、さらに生存率は低かったでしょう。

現在は研究が進みステージ1からステージIV(切除不能)があり、切除方法の概念や補助化学療法の開発などで生存率は徐々に改善されてきましたがやはり難病で生存率は低いです。

 

 

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ほっぺちゃんの親は年取ってから進行性遺伝難病を患いましたが、年取ってから発症したら進行は遅いけれど、ほっぺちゃんぐらいの年齢では進行が速いので、それが併発しないよう治療しています。

 

一時は体重も-13㎏まで落ち込みましたが、現在は-10㎏まで順調に回復しています。

ウエストと脚だけスリムになったらいいのだけれど(笑)

もう少しで退院できると思いますので、それまではゼロのブログで我慢してください。