日本の法律に、いや、世界の国々の法律に「カップルが道端で抱き合ってはいけない」とか「キスするな」といった法があるでしょうか。

欧米等では、挨拶で抱擁や頬に顔を近づけたりしてます。


大学の友人Kはカップルのいちゃつきが許せないそうです。見ていてむかつくらしいのです(見なきゃいいのに)。

多分Kは恋したことがないから、愛し合っているカップルを見ると、羨ましさの反面からむかつくのでしょう。

別に犯罪しているわけじゃないし、限度があるとはいえ、外で何しようと何ら問題がないように思えます。

それが恥ずかしいと思うカップルはしなければ良いのだし、したければすれば良い話しで、Kが持ち出した善悪の問題ではない気がします。


しかし、わが国日本ではそういった公衆でのカップルのいちゃつきを軽く蔑視、もしくは軽く怒ります(何とも思わない人もいれば、心和む人もいるでしょう)。

Kはその一人で、他人の目を気にしろといいます。確かに人の目を気にしていたら外でいちゃつくことは出来ないでしょう。

ある本からの知識ですが、日本人は「和」を大事にするそうです。「和」とは、「環」から来た言葉と考え、大昔、環濠集落に住んでいたとき、その中に住む人たちの協調性「環」を大事にしたようです。それが日本人の「和」の原点。協調性。つまり、みんなとの和を乱すやつ(ここではいちゃつくカップル)は馬鹿だということですかね。


一方、「愛」を重んじる欧米等では、周囲との環(和)より、自分勝手であっても「愛」を大事にします。家族が病気にかかれば仕事を休んででも看病するそうです。

まあ、これは国民性、至っては「宗教」の違いからともいえます。


僕はどちらかといえば「愛」を大事にすべきだと考えます。「和」は日本の心と言いますが、他人の為に自分を犠牲にする「和」はどうも・・・ね。

もちろん「和」の心は持っているつもりです。僕の父はこの「和」を特に大事にしてる人で、小さい頃から「和」を叩き込まれました。「お前一人で生きてるんじゃない。みんなのことも考えて動け」だとか父の言葉を挙げればきりが無いでしょう。


白状すれば、この夏僕は恋に落ちなかったら、Kと同じ意見だったことでしょう。いちゃつくカップルに唾を吐き捨て、悪態をついたかもしれません。

しかし、僕は「愛」、もしくは「恋」(愛と恋は別物ですが)の計り知れぬ、力を知りえました。少なくとも知ったつもりです。

愛し合っている者同士に他人の目など、三文の価値もないでしょう。抱き合ったり、キスしたり、「愛」があればこその自然な行為です。愛(恋)してないときでは恥ずかしい行為も愛(恋)してるときはできます。

さすがにそれ以上は公衆の前でやるとおまわりさんに捕まってしまいますが。


「和」か「愛」か。どちらが良いということはありません。どちらにもメリット・デメリットはあるはずですし、二元論で片付くようなことでもないでしょう。

うまく、両方をミックスしていけたら・・・・というのは理想ですかね。


それにしてもKは頑固なやつだった。柔軟剤でも飲ませてみようか。




大学の友達とカラオケへ行った。

いや、たまにはいいね。ブランキー、ミッシェル、ROSSO、フリッパーズギター・・・二時間だったけど、色々歌えて満足。


CDも買った。タワレコで試聴しててすごく感動した一枚。

キング・クリムゾンの「クリムゾン宮殿」。

一曲目の「21世紀の精神異常者(スキッゾ・マン)」がすごく良かった。

二曲目の「風に語りて」もフルートが使われていてきれいな仕上がり。


キング・クリムゾンは1969年ごろから活動し、同年このファーストアルバムを発売したらしい。

彼らはいわゆる、「プログレ」と呼ばれる音楽のジャンルに入るとか。


アズテック・カメラも気になったけど予算上購入断念。


失恋の悲しみも音楽があれば何とかなる。悲しみが深すぎると泣けないものなのかもね。


結論から言おう。女に振られた。そうすることにした。


クリスマスの誘いを断られたのです。「まあ、クリスマスぐらい・・・」って意見もあった。

しかし、けじめと言うか、区切りをここで付けたかった。


苦しみから逃れるためではない。苦しまなくなってきたからだ。つまり、思いがだんだん冷めてきたのかも知れないと思い始めた。でもそれは嫌いになったという事ではない。今も好きだ。


だからそれは恋が愛になったとも考えれる。恋愛が主観から客観に変わり、僕はそれを見ている視聴者。元・主役だが。

だから涙する。涙もろい視聴者である。恋愛の舞台から降りた、不幸な視聴者。


ピチカートファイブの「大都会交響楽」を聞いて、出会った頃から今を振り返る。でもそれはドラマの再放送も見ているみたいで、ちっとも悲しくない。

ドラマはもう終わった。もう涙するシーンは無い。気分は爽快。


今日、用事がてら一緒に食事をしたけれど、やっぱり片思いだった憧れのマドンナ。少し緊張したけど片思いの頃のあの緊張は無かった。そこで確信したのだ。

「あ~、退屈な日々が戻ってきたんだ」って。


しばらく会わないつもりだ。


さっそく友達にこのことを話すと「ヤケ酒だ、ヤケ酒!飲むぞお~」とうるさい。飲みたいだけだろがって、まあ僕も飲みたい気分だ。

「ヤケ酒」の予約が三件もある。こういう友達を持てたことを幸せに思う。


「あなたがもし幸福を手に入れたらどこかで誰かが病気になるとしたら?

それでもあなたは私を愛すと言いますか?」  ―寺山修司―


言います。


「君よ盃受けとくれ どうぞなみなみつがせておくれ 花に嵐のたとえもあるぞ さよならだけが人生だ」


さようなら。


SEE YOUじゃないよ、バイバイだ。


心が千切れるって どんな痛み?

失恋の悲しさって どんな痛み?


骨が折れた時より痛いし

風邪を拗らせた時より苦しい

ホント どうかなってしまいそうなくらい


治す薬はないの?

元気になる言葉はないの?


涙を流せばいい

泣きながら 叫べばいい

ホント どうかなってしまいそうなくらい


道なりに歩いてきました。


ふと振り返ると一匹の猫がいました。


懐かしい気がし、抱きかかえようとすると、猫は逃げていきました。


それで追いかけて行こうとした時、前から違う猫がやってきました。


でも僕はその猫が見えません。


まだ、逃げていった猫の残像だけが目に焼きついているから!

島田雅彦の「僕は模造人間」を久しぶりに読んだら、前とは違った解釈が出来て新鮮だった。


大まかなストーリーは、主人公の亜久間一人が「亜久間一人」を演じ、観察し、まるで他人をみるようにその人生を愉しむ。いろいろなキャラ。超打算的。命を弄ぶのが趣味。そんな主人公の物語。三島由紀夫がしばしば登場する。


とにかくクール。生まれたときからクールな主人公に魅せられた。まさに悪魔。

でも賛否分かれる本だと思う。僕はこんな感じの大好き。


明日図書館に行って、島田雅彦の本を借りてこよう。

「完全パンクマニュアル―はじめてのセックス・ピストルズ―」という本がある。抱腹絶倒、爆笑間違いなし(?)の一冊。パンクについて面白おかしく書いてある。うかつにも電車の中で読もうものなら、それは拷問に近いだろう。笑いを堪えることが出来ようか。


インターネットでもその一部が読めるみたいなので

http://punk-manual.cagami.net/


久しぶりに読んでも色あせない笑い。パンクを正しく知る良書です。

超馬鹿っぽいけどね。そこがウケル。



*本当は別の記事を書いてたのに、誤って消してしまったため、書いていた記事の一部を抜粋してここに   

 書きました。あーショック。パンクについて熱く語った文だったのに。なんで消えちまったんだい。FUCK!

嫌味なばかりの晴れた天気。そんな気分じゃないのにカラリと澄み切った空。


今の僕の気分を表してくれるなら、雨または嵐といったところか。どちらにせよ悪天候であれば良い。


しかし、こんなにもよく晴れているのに、しかめっ面で外に出るわけには行かないだろう。

太陽の光を浴びれば、思考回路もプラスに転化するかもしれないし、それを期待している。


叫びだしたくなる時も、泣き出したいときも、僕は太陽と月と星、そして本や音楽に助けられてきた。


涙などとうに枯れたものと思っていたのに。もうずっと、ずっと何年も泣いていなかったのに。

怒りはいつも心に収め、握りつぶしていた。憎しみも同様に。


いつしか、泣くことも、怒ることも感情の一部というよりか演技や擬態といった別物のように感じられ、そんなことする必要あるのかと思っていた。


本当は泣きたいのに涙は出てこない。それが悲しくて涙が出てくるわけもなく、ただ虚無感が残る。



パソコン脇の窓から日が射す。窓際の萎れた花が何とも言えない。これが今の気分なのかもしれない。

眩し過ぎる日光にうな垂れる花。生を感じさせる太陽の光に対し、死を感じさせる萎れた花。

スケートをすべる様に、それで転んだ様に、疾走から転落。


帰り道にみた空は赤く大きく焼けていて、地平線を焼き尽くす火の様だった。

それを見て俺は、「本当に燃えていれば良いのに、あれだけの火ならどこへ行っても逃れられないだろう」と思った。


あることが終わることはすごく単純で、儚い。それが恋にしろ同じ事だ。


世界の終わりを想像した夕焼けは、やり切れない俺の感情をフルに掻き立た。

そして、進行方向一面に広がる「火」をずっと眺めながら歩き、「火」が押し寄せてくることを期待し、歩くスピードを少し落とした。


やがて、一面に広がっていた「火」は衰えたかの様に変色し、黒へと呑まれていった。

自然の摂理。有終の美。

やってくる夜は俺をいつも不安にさせる。そして、朝を恐れ、また空が焼けることを祈る。


「俺」の思考の半分は誰かに奪い取られて返してくれない。その人はその半分を不気味に眺め、俺は頭に残ったもう半分とで体を動かし、「大切にしてね」と言いに行く。

「返却期限はありません。けど、無くさないでくださいね。その半分を失ったら、もう恋は出来ない気がするから」


世界の終わりの「火」が地平線に広がった夕暮れ、思い出すたびに後悔するだろう。あの時何故「火」目掛けて走らなかったのかと。

半分のアタマでは考え及ばなかった。やっぱりもう半分貸すべきでは、否、奪われるのを阻止すべきだった。


何故、あの時出会ったのか、それが偶然であることはもう聞いた。運命だと言ってみればそれもそう。

最初から分かってた。違う星の人間で、すれ違う彗星なんだって。そう例えられる。

想いを伝えた時、結果、道は二つあった。辛く悲しいけれど新たなスタートを切る道。怠惰な愛情に溺れもがく道。

それで俺は後者を選択した。断続的で、永続する苦しみを選んだのは自分だから、覚悟しなよ。


「早く終われば良いのに。これ以上は無理だ」

「ありがとう。さようなら」

「上手く喜べないんだ。感情が欠落してるのかもね」

「ホントは好きじゃないのかも」

どれも本音で、言えなかった消費期限の切れた腐った言葉。


明日の夕焼けと共に燃えろ。全ての言葉はさよなら。