300人ものお客様が会場に集ってくださり、

同窓会のような楽しい会を作ってくださいました。

以下ご参加いただいたお客様へのお礼と会の趣旨説明のお手紙です。

文章は突っ込みどころ満載ですが、ご理解ください。

 

この度は、酷暑の中お忙しいところ『マナセプロダクション75周年感謝の会』に

御参加いただきまして有難うございました。

 

私事ですが、昨年11月に帯状疱疹にかかり、処方された薬が合わず幻覚を見るほどの異常さで、

救急車で日赤病院に運ばれました。

健康を誇って病気知らずでおりましたので、齢80にして初めての入院でした。

 34歳で始めた花屋がプロダクションの仕事にかまけて急激に傾いてしまい、

廃業するよりもう一息努力して。。。と、3分の一の大きさの店に移転縮小し、

店番・配達・下げまで時間をやりくりしながら参加しました。

その作業は自分にとって楽しく苦になってはいませんでした。

そんな折、仲良しのお仕事仲間が急に亡くなってしまい、心身ともに堪え

悲しみの中、お別れの祭壇を心を込めて飾らせていただきました。。。
帯状疱疹の痛みに気が付いたのが約1か月後。背中が爛れた状態に。

その段階で病院に診断に伺って、少し強めのお薬を出して頂いたのですが、

疲労と栄養不足で免疫が下がっていたのですね。

目を開けてもつぶっても幻覚が見えて

大掛かりな撮影現場にいるかのような映像が見え続けて眠れない3日間が過ぎ、

息子たちが救急車を呼んでくれて病院を転々としました。

精神科から内科まで診察を受け、日赤病院にたどり着いたのは夜中。

真琴つばさの帝国ホテルでのディナーショーの前日でした。

病院でも幻覚は出続け、「真琴つばさが花屋敷にさらわれる」と

ディナーショーのプロデューサーに朝6時に電話で訴え、ご心配をおかけました。

今では笑い話ですが、怖い経験でした。

自己管理ができなかったために薬を出してくださったお医者様にもご心配をかけましたが、

治療を日赤病院と連携してくださいました。

 腎臓の働きを損なうほどのショックに病院では薬害を洗い流すことに毎日を費やし、

何もすることのない日々の中、過去現在に思いを巡らしました。

日航機事故の折、2週間ほど自宅を留守にしました。

その時にTVの事故報道の画面に母親の姿を求めた当時小学生の息子たちが毎日見舞ってくれて、

仕事の空白を埋めてくれましたし、次男がご飯は僕が作るよと申し出てくれました。

花屋の配達やスタンドの下げ等裏方仕事を主人が手伝ってくれました。

プロダクションの制作を助けてくださっていた方たちが安心して任せてください!と

励ましてもくださいました。

会社のスタッフも入院中でも仕事ができるようにと頼もしく支えてくれました。

前向きに努力することで自己満足しておりましが、ベッドで振り返えると、

私が担当した45年間、折々助けて下さった方々がいらしたことに思い至りました。

 

芸能一家に育っただけで能力不足の私が、

父母姉兄が築いた成果を損なわずに存在させることは、簡単なことではありませんでした。

私をこの世界に誘った坂本九さんを日航機事故で亡くしたこともあり、一時は辞めてしまおうかとも。

今ここで祝っていただけておりますのは偏にその時々にチャンスを下さり、

お知恵を貸して教えていただき、応援してくださった皆様のおかげと心から感謝いたしております。

 

長い説明になりましたが、

『この想いを抱えたまま死んでしまったら後悔が残る。。。』

それが突然、『感謝の会』を開催し、お招きした理由です。

お忙しい方々ばかりなのにこんなにお集まりいただき、心より感謝を申し上げます。

 

お客様のニーズも変わり、芸能界のルールも変化してマネージメントは不遇の時代かもしれません。

でも、だからこそ心機一転、古い良さも生かしてタレントを育てたいと思っております。

長男・昌治が跡をついでくれるそうです。

私も親ばかなので、まだまだ一緒にやって行こうと思います。

もう少しお付き合いいただけないでしょうか? 

 

親子ともども是非ご指導ご鞭撻のほどお願い申し上げます。

 

酷暑の中ですが、心身ともにお健やかにお過ごしいただけますことを心から願っております。

 

今まで本当にありがとうございました。重ねてお礼申し上げます。

 

2023年8月7日

株式会社マナセプロダクション 

代表 山田(曲直瀬)道枝