母と一緒に仕事をするようになっていきました。

彼が感じる可能性を母が生かして。

母はしっかりしていて賢い人でしたが、

欧米風の家庭で育ったのに

大和撫子の感覚を持った人でした。

いつ寝ているのか?と思うほど働いているのに

足袋や靴下はしっかり継ぎをして、

主人の広げる夢を叶えようと

相当努力したと思います。

軍には3つの階級のクラブがありました。

シヴィリアンクラブ、オフィサーズクラブ

もう一つは将校クラブ?NCOクラブ?だったのかしら?

【大垣さんがOC(将校クラブ Officers Club)
NCO(下士官クラブ Non Commissioned Officers Club)
EN(兵隊クラブ Enlisted Men's Club)
と教えて下さいました。】

父は常にあちこちのクラブも見学して

日本に優れたJazzを紹介する道を

探っていったそうです。

父は遊び人でしたから、

アメリカのミュージシャンの名前も詳しくて

駐留している兵隊の中に

著名なミュージシャンがいることを聞きつけて

Big Jimmyの力を借りて

兵隊たちのバンドのコンサートを企画しました。

青葉城の野外ホールで行ったコンサートは

音楽好きの日本人と進駐軍の上層部を含め

大評判だったそうです。

 

シッカリ地盤も固め、会社(オリエンタル芸能社)も創業して

日本中のJazzファンも歌手もミュージシャンも

仙台の弊社主催のコンサートに喜んで出演してくれました。

その頃は姉翠も信子も父母を手伝い、

東京からのお客様のお迎えも。

二人とも学生ながら英語も話せて

父母はとても心強かったと思います。

学生の2人にさせるべきではないのでは?

とも思っていたと後に母が私に語っていました。