20年間働いていたお手伝いさんの家を頼って心細かった。

姉たちは学童疎開、祖父母や父母と小さい子供たちが一緒だったようです。

山へ登ってはアケビをとり、田んぼの畔に泥鰌捕獲のかごを仕掛け、

田んぼが凍れば穴を掘って鮒を釣り

鶏と山羊を飼って卵とミルクをとり、蚕のために桑の葉をとって

殆ど自給自足の生活でした。

菜っ葉を切り、米ぬかを混ぜて作る鶏のエサや

家の外にある井戸や便所や、その後ろに植えてあったジャガイモ

畑の溝に流し込んだ肥溜め。お腹がすくと直にとって食べたトマト

小学校1年生までしかいなかったのにはっきり覚えています。

そんな日常の中で馬上の視察中の進駐軍の兵隊に

祖母が道案内をしたことが縁でネイティブな母の英語を生かす仕事が。

言葉の問題でとても困っていた仙台の米軍の将校に誘われ

軍の中で机と電話をあてがわれ通訳としての生活が。

直ぐに軍の状況や必要なことを要望する会議をリードするように。

King's Englishを操る

人品卑しからぬ女性は説得力があったのでしょう。

役職というよりかなりの力を得られるようになったそうです。

中央に立つ大きな方がBig Jimmy、ベースも弾く

音楽好きでいらっしゃいました。

この方との出会いが会社を作って日本でのJAZZの振興を促す

大きなきっかけになったと聞いています。