進駐軍の兵隊と渡り合い、

将校と理解を深める姿を見て

母を思いました。

母も村岡花子さんと同じ東洋英和を出ました。

家庭環境も含めて英語は母国語の様に話しました。

アメリカンスクールの子供を教えていた時代もあると

聞いています。

妹のまり子叔母さんも同窓で

そこでの長岡輝子さんと演劇の道を進みました。

今になって私の愛読書だった『赤毛のアン』翻訳者

村岡花子さんとのご縁を知って

なんだかホンワカ嬉しい気持ちがしています。

母の実家は貿易の会社を営む実業家でした。

厩舎も築山も東屋も庭の中にあって

働き手が住む長屋もあったと聞いています。

そういう昔話はお墓のそばにある御茶屋さんの奥さんが

この辺では牧野さんのお宅のお手伝いにあがるのが

娘たちの憧れだったと聞いて

時代離れした話に感心したのは私の娘時代でした。

母の父も母も、

其々アメリカとイギリスの日本人とのハーフでしたから

戦中、戦後は苦労も多かった筈ですが

そういう環境で身に付いた英語のおかげで

チャンスを掴めたのですから

運命の悪戯ってこういう事でしょうか?

母は美しい上に、しっかりした大きな人柄でした。

もう失くして40年、懐かしく、恋しいです。