ある日の日記① | H9生まれ、ぼっち大学生。その名もペンギン

H9生まれ、ぼっち大学生。その名もペンギン

性欲とか精神の成長についても書くので一応言っとくと、ゲイ寄りのバイです。

 このブログを初めてまだ少ししかたっていないけど、そのぶん、4年前くらいからちまちま日記帳を付けてきていました。毎日書いていたわけではなく、本当に不定期で、失恋したり勉強が嫌になったり、友達関係がうまくいかなかったりしたときに特に書いていたものです。もともと、オジサンになった将来の自分がニンマリしながら読み興じることを想定して書いているものですが、中には、これはほかの人にも読んでもらいたいと思わせるような完成度のある文章も現れました。「ある日の日記」シリーズとして、そのような秀逸なものを、このブログに抜粋しようと思います。多分、5回ぐらいは続くでしょう。

 一回目の今日は、一番好きな文章を書き写します。内容は、信頼ということの脆弱性と、それにあらがう初恋の思い出です。

 以下抜粋し、一部は本旨の妨げにならない範囲で、適宜書き換えた。冗長な抽象論を避けたい人は二つ目のひし形(◆)から読んでください。

 

    (……省略)。最近しばしば考えることだが、信じることの大変さということ。よく、「人間不信になった」、と失望した人たちは言うが、これの実害を挙げてみる。それは、僕の造語であるが、「n次の信用」という概念が成す実害である。

    1次の信用とは、A氏がB氏を信用することである。一般的な信用とは、この1次の信用を指すものだ。例えば、A氏が財布を失くしたとして、状況的にB氏が怪しくても、「B氏は普段善い人だから盗ってないだろう」と信用することはこれに当てはまる。

    では2次の信用とは何か?それは、「B氏がA氏を信用してくれているはずだ」、とA氏が信じることである。述語を先に置く英語を借りて言うと分かりやすくなる。1次の信用とは “A believes B” だけであるが、2次の信用では “A believes that B believes A” という状態だ。つまり、信用の前提がまた信用、という不安定な状態が生じている。これが冒頭の「人間不信」により損なわれると厄介で、A氏は自分の信用を保持または回復するために、本来信用問題とは関係ないはずの一挙手一投足をやたらと「潔白に」見せるのに腐心するようになる。上述の抽象論は複雑だから、ある人の「癖」を具体例として挙げよう。ある人は、スーパーや書店、コンビニなど、買い物に行くと不安ごとが付きまとう。「自分が店員に万引き犯だと疑われていやしないか」という不安であり、それがゆえに彼(彼女)は、買い物の時にポケットから携帯を取り出せないし、防犯カメラの角度を気にして歩くし、出入り口のブザーを通過するときはいつも足早である。もちろんこの人は万引をしてないし、したこともないのにもかかわらず、こういう癖があるのである。この具体例において、買い物客はA氏、店員はB氏である。どうだろうか、A氏は生活に微々たる実害を来していると言えないだろうか?これは「2次の不信」である。

    ここで、実際にB氏がA氏を疑っているのなら、そんなA氏の癖はいびつながら功を奏するかもしれないが、B氏の疑念というのが実はA氏の人間不信によって、A氏の脳内にだけ存在する妄想だったらどうだろう?B氏や或いは第三者の目に映るA氏は、変なことにこだわる変人である。このような例は世の中にたくさんある。簡単な例はAがBのものを壊してしまったとして、AはBから信用を回復するために、(たとえBはとっくにAを許していたとしても)、やたらと「ごめんなさい」を繰り返し、やたらと賠償金を払い続けたり、それ以降Bの物品はどんな些細な物品で両手で慎重に持つようになったりして、こうした態度はBや第三者にとっては変な癖にしか見えないだろう。……とこう考えると、個人個人の「癖」というのには、実は各人の悲しい罪悪の過去が隠れているんじゃないか、ぞっとするなあ。

   そうして、3次の信用、4次の信用と話は複雑になっていく。これは実例として存在するのだろうか?A believes that B believes that A believes that A……というのは、理論上は考えられるけど、そんな人いたらやばいな。

 

◆◆   

   信用というのは全部幻想である、という前提が、この「n次」という果てしなさを産出する。これでは生活が成り立たないから、果てしなくならないように、確固たる根拠らしきものを物を、人間は求める。家族の信頼は、一緒に暮らした時間の長さとか、血縁という根拠らしきものに依拠する。日本円の信用は、日本銀行の実績や日本政府の巨大さに依拠する。同郷の友人への信頼は、やはり一緒に過ごした時間の長さや、子供のころを知っているという特別感に依拠する。恋人への信頼を確固たるものにするために、お揃いのアクセサリーや肉体関係を求める。これらの担保・抵当らしきものは全部、実はこじつけなのだという事。これを机上の空論ではなく、実感として思い知らされた時、僕は大きく打撃された。なにも信用できなくなっちゃうじゃないか、と。本当に、世の中の信頼関係全部がそうなんだから。一つでも、「それ自体が確固としている信頼」があるというなら教えてくれ誰か!……と、こんな煩悶に付け込んでやってくるのが宗教勧誘である。しかし、その彼らすら神と人間の信頼関係をやはり信じ切れていないから、ホレ見てみろ、宗教の連中も担保・抵当らしきもの、すなわち十字架の飾りだの、過度な装飾だの、社会的な司祭たちのヒエラルキーだの、戒律だの、儀式だのが準備しているのである!馬鹿どもめ。もし本当に神を信じているのなら、その宗教は聖書も、戒律も、教会も、アクセサリーも、仏壇も、墓地も、お祈りも、教祖も、あらゆる内容を伴わず、「ただ心の中の信仰」、それのみでできているはずである。馬鹿どもめ。

 

◆◆◆

   一般論はここまでとして、最後にこの「n次の信用」について、僕自身のキラキラした物語をひとつ。

それは、僕が高3のころ、初恋の人と自転車漕ぎ漕ぎ、二人して喋りながら下校していた時のこと(一応書いておくと、これは片恋である)。僕は普通のママチャリで、彼(S君、男である)は、電動自転車だった。正面に神社の見える住宅街に差し掛かった時、そこで彼はこういった。「デンチャリで進んでいる俺の腕に掴まると、お前(つまり僕)の自転車を牽引できるよ」と、まあ彼は、彼の自転車の馬力をお披露目したかったのである。

    さて、当時から僕は手汗がコンプレックスだった。すぐ手に汗をかくので、教室でプリントを後ろに回すのにも、人と握手するのにも、人の文房具を借りるのにも億劫であった。S君は僕の手汗を知っていて、僕が普段そうした「手の接触」を敬遠するのを見て、彼は無邪気に笑っていたものだった。これは、前述の「2次の信用」に当てはめれる。僕は普段から手洗いを欠かさなかった。休み時間ごとに手を洗ったり、街に出かければしょっちゅう水道を探す僕を友人たちは潔癖だと言って無邪気に茶化していたが、僕は実際は潔癖症ではないんだからと、僕のそんな「変な癖」の理由を、いちいち説明したり、しなかったりしていた。

    話を下校時間に戻そう。確認するがこれは、「キラキラした」話なのである。

    僕はそんなわけで、「腕に触ったら汗がついちゃうからやめとくよ」と答えた。相手はましてや好きな人だったから。すると彼は屈託なく、「そんなのいいから早くつかまれ」と、僕に言ったのである。この時、僕の「2次の不信」は解消せられて、僕は、彼の腕をしっかり握りしめることが出来たのである。……とその瞬間、ふわっと僕の自転車が引っ張られ、僕は目を丸くして「スゲースゲー」とはしゃいで、また彼は得意そうな表情を浮かべて、僕ら二人は鳥居の前の風を切っていったのだった。

    今でも、自転車に乗って気持ちがいい時は、左腕の先にいるワイシャツの白がまぶしい彼を思い浮かべて、さわやかな気分に浸ることが出来る。僕は、彼の後ろ姿の広い肩幅と広い背中が、そして彼の屈託のなさ・無邪気さが好きだった。今は彼と言い合いをして絶交してしまったが、そのことが彼のワイシャツのように白い屈託のなさに黒い汚点をもたらしていやしないかと思うと、ああ、と思わずうめいてしまう。

 

 

(抜粋終わり)