2015年10月6日、9日、10日に開催される「俳優のための実践的ワークショップ」の講師である映画「海を感じる時」の安藤尋監督にインタビューをしてきました。ワークショップに参加する方はぜひ参考にしてみてください。まず第一弾です。(聞き手:ワークショップ主宰・松枝佳紀)

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松枝 安藤さんは、俳優の村上淳さんと多く仕事をされているように思います。そのようになじみの俳優を何度も使うということを映画監督はよくやるように思うのですが、そういう欲求が映画監督にはあるということでしょうか?

安藤 たしかにムラジュンさんとは何回かやっていますが、そんなに主演で出てもらっているというわけでもない。割と廣木さんなんかは同じ俳優を使う傾向にありますし、そういう監督が多くいるのも知っています。そしてそれが悪いことだとも思ってはいません。ただ、僕的には、俳優には「特定の映画の特定の登場人物であってほしい」と思っています。だから、なじみの俳優を何度も使いたいというような欲求はありません。むしろ、同じ俳優が、同じ監督の全く関連の無い別作品に、監督と仲が良いからとか、監督にとって使いやすいから、という都合で出演しているのは、映画という虚構を観客に信じてもらうためにはマイナスの可能性があるとすら思っています。作品より俳優が前に立つと、観客は、映画の登場人物を、物語の登場人物ではなくて、「ある俳優」が演じた「役」として見るようになってしまう。「今度あの人はどんな役をどう演じるだろうか」というような感じで。でもそれは観客の意識を、映画という物語には集中させず、たとえば「どういう都合でキャスティングされたんだろう」というような「映画の外」に持って行ってしまう。それは純粋に映画の世界に入ってもらうためにはマイナスだろうと思っています。

松枝 まったくの新人を使うことについてはどう思われますか?

安藤 映画作りの構造が変わってしまっていて、昔はまず企画によってお金が集まり、脚本を作って作品にふさわしい役者を探してという順番だったのに、いまは誰をキャスティングするかを決めないとお金が集まらない。そういう意味ではお金の集まるキャストをまず押さえることが重要なので、監督が作品本位で俳優を選びづらくなっているというのがあると思います。ましてやお金の集まりづらい新人をメインで使うというようなことは、是枝さんとかになれば別ですが、なかなか難しい。とは言うものの、監督の欲望としては、固定概念から離れた人、その映画にもっとも適した人を使いたいという欲望はあり、もしそれができるなら、それが理想なのかなとは思います。

松枝 僕がこの「俳優のためのワークショップ」を主催して10年になるんですけど、新人の抜擢されづらさについては強く危機感を持っています。魅力もあり演技力もあるというような人が本当に困っているのに遭遇するんです。どうにかして、エキストラに毛の生えたような役ではなくて、ちゃんとした役で登用してもらいたい。そういう思いで毎回講師をお願いする監督には、使えそうな俳優が居ればどうか使って下さいと頼み込んでいます。

安藤 そうですよね。たしかに新人の喰い込む余地がなかなか無くなっていますよね。僕自身は、格好よく言っちゃうと、「俳優には映画を生きて欲しい」って思っているんです。「演じる」ということよりも、その場で「生きる」ことをして欲しい。そういう意味では、なにも映画の作法を分かっていない新人は、映画を「生きる」ことに向いている気がする。なので新人の登用にはもっと前向きであってもいいと思っています。たしかに、段取りがうまかったり、職業俳優さんには、低予算の現場なんかでは助けられたりはするんですが、一方で、ワンカットのなかで、どう生きてくれるかということをやってくれる俳優さんとやりたいという気持ちは強いですね。新人かどうかに限らずですが。

松枝 俳優に映画を生きてもらううえで、安藤さんがやってることってありますか?撮影前に準備を俳優に求めるとか。

安藤 逆に言うと、なにもやらないというか、例えばリハーサルというものがありますが、クランクイン前に雰囲気を知っておきたいのでリハーサルをやるというようなことは無くはないんですが、僕なんかは、たとえば公民館のタタミの部屋で、なんか座布団を置いたりして「えー、ここはキッチンです」とか(笑)、そういうのダメなんですよね。あきらかにそれキッチンじゃねーだろと思っちゃう。芝居というのは、現場の、本当のその空間に入らないとあまり意味が無いと思う気持ちがあるんです。人間の感情とか気分とかは空間や時間帯から、大きい影響を受けると思うんです。だから、「じゃ、ここから朝日がさしてる感じで芝居をして下さい」とか言って真夜中にリハーサルをやる意味がわからない(笑)ただ、助監督とかみんな一生懸命やってるんで止めるに止められないんですけども(笑)。

松枝 (笑)

安藤 溝口健二などの沢山の監督たちが「受けの芝居」が大事ということを言っていて、僕も「受けの芝居」を大事にしたいと思っているんですが、リハーサルは「受けの芝居」を産み出すのを阻んでいるような気がするんです。受けることを放棄して、自分で勝手に作っていくことを強要している気がする。「ここは映画の流れとして悲しくなってくるだろうから、悲しくなろう」というように感情を自発的に作るようにさせてしまう。もちろん、映画は順撮りではないので、事前にプランを作っておくことが大事なこともありますが、それにしても、やりすぎてしまうと、このセリフの時には、この感情でこう行くんだということがドンドン作られて行ってしまう。で、結局、それはタタミの部屋でやろうが、現場でやろうが同じ芝居になっちゃうんですよね。たしかに、段取りを純化して綺麗に作っていくのはプロの俳優さんには必要なことなのかもしれないですが、僕なんかはそういったことの必要性もわかりながらも、どこかで、そうじゃない部分が隙間にちょっと入ってきてくれると良いなと思っていて、それは俳優部に頼ることが大きいと思うんですよね。その人の持っている感性だったり、ある仕草だったり、その人が本来持っている何かだと思うんですよね。それが入ってきて、死にかけた映画に命を吹き込むことになるんじゃないかと思っている。

松枝 なるほど。

安藤 そんなこと言いながら、でも僕はアドリブが嫌いなんです(笑)。アドリブでなにかしようとする俳優は勘弁してくれと思ってるんです(笑)。厳密に言うと、こちらがこれで行くと決めた台本に関しては言葉尻も変えて欲しくないと思っている。脚本家が「ね」にするのか「の」にするのかで一晩考えたりもするわけだから、それを簡単に変えちゃいけないと思っています。もちろん、その通り行かないで変えることもあるんですが。俳優には彼なり彼女なりの「もともと持っている感性」を維持してもらいながら、「自分の言葉では無い言葉」と格闘して、その感性を守りつつ、「他人の言葉」を「自分の言葉」として発し、その場にただ居る人になってほしい。絶対宿命として、俳優部は「自分の言葉ではない言葉をどうやって身体になじませていくか」ということと向き合わなければなりません。そういう意味で言うと、僕は最近の俳優部さんは、「言葉との対決」みたいなものをどっか放棄しているんじゃないかと思っている。みんなが、「身体」、「身体」と言い過ぎていて、「言葉」をないがしろにしているんじゃないかと思っている。「映画を生きる」って言うのは「書かれた台本の言葉をどう生きるのか」ってことでもあると思うんです。俳優部さんにはその宿命に正しく立ち向かって行って欲しいと思っているんです。

第2弾につづく

安藤尋監督ワークショップの詳細は→http://alotf.com/ws/ws22/