ACT9 フェアウェルパーティ

「艦長。地球本部より入電です。至急第二艦橋へお出でください。」
 飛翔の艦内放送が流れると、ほどなく沖田が椅子に乗ったまま艦長室から降りて来た。ハヤトの最上層にある艦長室と艦橋とは直結しており、エレベーター式に上下する椅子ごと移動できるようになっている。
「メインパネルに転送せよ。」
「了解。」
 飛翔がスイッチを操作すると、メインパネルにトウキョウ・ベース司令長官郷田の上半身が映し出された。沖田とメインスタッフ一同は、それを見上げて敬礼をする。
『沖田。随分遠くまで来てしまったな。どうだ、ハヤトは。』
 苦労が多いのだろう、表情にやつれを見せて、郷田はそう問い掛けた。
「ハヤトは健在だ。冥王星では敵基地の破壊に成功、デネブ付近での敵艦隊との戦闘にも勝利を収めた。現在、地球から約一万光年の銀河辺縁部に停泊中。間もなく銀河系に別れを告げる。通信はこれが最後で、しばらくは途絶えることになるだろう。再び我々が戻って来るその日までは……。」
 沖田は、友の苦悩を辛く思いつつも、力強くそう答えた。
 ハヤトは、これまでワープするたびに、その地点に通信リレー衛星を残して来た。この通信リレー衛星もティアリュオンからのメッセージに含まれていた設計図を基に作られた物で、ワープ通信回路を内蔵し、時空を越えて通信電波を送信することができる。一万光年の距離を隔てたこの銀河系辺縁部からでも地球と通信ができるのは、その働きに因るものである。
 銀河系内ではワープの距離は多くて千光年、せいぜい数百光年だったが、一度銀河系を出れば、ワープの単位は十万光年になる。ティアリュオンの科学の粋を集めた通信リレー衛星も、そんな途方もない距離はカバーできない。地球と通信できるのも、銀河系内だけのことなのだ。
『うむ。そこで、最後に地球の様子を話しておこうと思う。トウキョウ・ベースのエネルギーや食糧状態は良好だ。一年くらいは十分に持つ。だが、放射能帯は既に地下三百メートルにまで降下して来ている。人々は不安に押し潰され、ハヤトの帰還の可能性だけを話し合い、そのあまりにも困難な旅に絶望し始めている。ハヤトのことが知りたい。我々にはハヤトだけが……。』
 郷田が訴えるようにそこまで言った時、突然画面が乱れ、その姿がパネルからかき消えた。
「地球側の出力不足のようです。調整のため、五分間の猶予をください。」
 飛翔が告げ、艦橋勤務の通信士たちが調整を始める。
「ハヤトは帰るわ。必ず……、帰って来るわ。」
 何も映さなくなったパネルを見上げて、舞が呟いた。それは全乗組員の希望であり、信念である。
「そうだ。ハヤトは帰る。必ず帰って来る。」
 沖田も大きく頷いた。
「我々は、今までの戦いで確かに勝利を収めては来た。しかし、先の戦いを見てもわかるように、敵も主力を繰り出して来ている。この先も、様々な罠が我々を待ち受けているだろう。遅れを取り戻すのは、今のこの平時を置いて他にはない。銀河系を出たら、ハヤトは直ちに長距離ワープを行う。」
 沖田の言葉に、第二艦橋に微かなざわめきが起こった。
「一度長距離ワープをすれば、ハヤトは、銀河系さえ見分けられぬほどの彼方へ出ることになるだろう。よって、今日は各自三分間の交信を許可する。フェアウェルパーティだ。ハヤトは必ず帰る。それを皆で伝えよう。そして、地球と我々の銀河系に、ゆっくりと別れを告げよう。パーティの成功を祈る。」
 沖田の言葉がそのまま艦内に告げられると、乗組員たちの間に歓声が上がった。
 地球。
 その響きは、乗組員たちにとって、この上もなく懐かしいものだった。二度と会えぬだろうと思っていた家族とも、もう一度言葉を交わすことができる。ハヤトの中は久し振りに笑顔で満ちた。
 だが、喜びに沸く乗組員たちの中で、猛だけは浮かぬ顔をしていた。交信を許可されても、家族のない猛には、肝心の交信相手がいないのである。
 浮き立つ人波が通信室へ向かって流れて行ったが、猛はその流れに逆らって、一人いずこかへ歩み去って行った。

「交信準備できました。」
 舞が第一通信室から顔を出すと、部屋の前の通路は、交信を待つ乗組員たちで既に一杯だった。
 地球との通信状態は、時間ごとに悪くなっている。限られた時間内に、全員を交信させなければならないのだから、通信士だけではとても人手が足りず、同じ通信班の誼で、舞も準備を手伝っていたのである。
「あら? 猛さんは? もうすぐ猛さんの番なのに……。」
 家族との再会を控えてそわそわと落ち着かない様子の乗組員たちの名前をリストと照合していた舞は、猛の姿が見当たらないのに気付いて、不審そうに辺りを見回した。
「ああ、猛なら、さっき展望室の方へ歩いて行ったようだがな。」
 その呟きを聞きつけて、やはり列に並んでいた涼がそう答えた。
「まぁ、ほんと?」
 舞は眉をちょっとひそめ、涼に礼を言うと、後を別の通信班員に任せて展望室へ向かった。長い髪がわずかに揺れるその後ろ姿を、涼は微かな笑みを浮かべて見送った。
 猛がここへ来られない理由を、彼は知り過ぎるほどに知っていた。本来ならば、その理由を話して、そっとしておくよう言うべきなのかもしれないが、敢えてそうしなかったのは涼の策略である。
 猛に会ったら、舞は何を思うだろうか?
(まぁ、この程度の世話は焼かせてもらおう。)
 親友の胸中を慮りつつも、涼は、自分の思いつきに満足して、もう一度微笑んでいた。

 その頃、猛は、人気のない第一艦橋で、どこまでも続く星の海を眺めていた。色とりどりの星の光が、まるで宝石を撒いたような美しさで猛の眼前に広がっている。だが、美しいそのきらめきは、猛に向かって何も語りはしなかった。
 第一艦橋は、第二艦橋の上層にある一回り小さな艦橋である。普段は艦橋としては使用されていないのだが、強化ガラス張りの窓一杯に広がる光景は、通路の小窓から眺めるよりも遙かに壮大で、乗組員たちは、いつしかここを「展望室」と呼ぶようになっていた。
 しんと静まり返ったその展望室に、時折、どこからか、仲間たちの笑い声や楽しげなさざめきが漏れ聞こえて来る。交信の順番が進んで、パーティも盛り上がり始めているのだろう。だが、その明るい声は、渦巻くたびに、猛の気持ちに鋭く爪を立てた。
 守る者も、愛する者も、自分にはない――。
 その事実を、改めて思い知らされるような気がするからである。
 愛する者たちへの思いを熱く語る仲間たち。彼らは皆、愛する者を守るために戦っている。それに引き替え、自分には、今日のような日に別れを告げるべき者もいない。一人には慣れているはずだったのに、それは紛らわしようのない寂しさだった。
 守る者のない自分は、何のために戦っているのだろう。
 兄の仇を討つためか? それも良い。
 だが、それを果たした後に一体何が残るのか。
 そう想像するのは辛いことだった。
(兄さん。)
 そっと心で呼び掛けると、変わらぬ静寂を保つ宇宙空間に、兄の面影が浮かび上がる。幼い頃に亡くなった両親の面影は既に朧であったが、いつも猛の側にいて、猛を励まし、見守っていてくれた隼人の面影は、片時も猛の胸から消えることはなかった。
 強く、優しく、いつも輝いていた兄。その兄に比べて、今の自分はあまりに弱く、女々しく、そして情けない。そんな思いが胸を刺し、猛の辛さに拍車をかけた。
 兄であれば、決してこんな感情に囚われることはあるまい。猛とて、こうした感情に囚われてはならぬことぐらいは知っている。だが、自分には誰も残されていない、そう知ることは果てしなく孤独であった。
(お前は生きている……。)
 その時、静まり返った展望室に兄の声が響いたような気がして、猛はハッとした。
「兄さん!」
 猛が思わず身を乗り出すと、同時に、兄の面影に代わって今は亡い戦友たちの明るい顔が蘇った。
(猛……!)
(猛……!)
 水晶のような笑顔に、ただ猛への信頼だけを映して、彼らは口々に猛の名を呼んだ。
「皆!」
 それは、忘れようとしても忘れることのできない、デネブ星域の戦闘で散って行った、八人の仲間たちであった。猛は、その明るい顔を、胸塞ぐ思いで見つめ返した。
 猛が何よりも愛し、大切にしていた仲間たち。訓練学校で過ごした三年間、辛い時も苦しい時も、いつも一緒だった。その彼らを死なせてしまった悔恨が、猛の胸を哀しく貫いてゆく。
(俺は、お前たちに何もしてやれなかった。)
 志半ばで倒れた仲間たちの苦痛と無念が思われ、無力な自分が蔑まれた。なぜ彼らは死なねばならず、自分は生きているのだろう。
 愛する者も守る者もない自分が……。
(お前は生きているだろう。)
 隼人の声がもう一度遠くでこだまし、仲間たちが一斉に笑った。
(俺たちはいつも一緒だ……。)
(頼むよ、猛。俺たちの分まで……。)
(お前にならきっとできる……。)
 猛の思いを労るように、澄んだ眼差しの一つ一つがそう語り、彼らの思いの全てが猛に向かって流れ込んで来る。自分を去らしめた運命を恨むでもなく、生き残った者を責めるでもない、その暖かさは、猛の心を暗く淀んだ淵から次第に救い上げて行った。
(わかるだろう? 猛。わかっているはずだ……。)
 そう言い残して、きらめく笑顔が再び宇宙の闇に溶けた時、猛は翻然と悟っていた。
 死してなお不動の信頼を寄せてくれる仲間たち!
 それが自分に残されていることを、彼らは教えてくれたのだ。守るべき愛する者は、地球にはなくとも、共にハヤトに在ったのである。
 そして、兄は、生き残った者の成すべきことを教えてくれた。
 猛は生きている。使命を果たすことなく逝かねばならなかった彼らの無念を思えば、猛の感じる寂寥などは、単なる感傷に過ぎない。己の生命のあることに感謝して、精一杯生き、彼らの果たせなかった夢を継ぐ。それこそが、眩しいほどのその信頼に応える道であり、生き残った者の成すべきことであろう。
「ありがとう、兄さん。ありがとう、皆……。」
 猛は、自分の気持ちが、ようやく落ち着くべき場所へ落ち着いて行くのを感じていた。
 それにしても、ごく当たり前のこの場所へたどり着くまでの心の旅路は、自分の未熟さを如実に表しているように思われる。
 わかっているはずだ、と彼らは言った。
 そう、猛は、自分の成すべきことを正確に理解していたのだ。だが、わかっているはずのそのことを、一時の感情に負けて、猛は見失いかけた。それは、二十になったばかりの少年にとっては無理からぬことなのかもしれないが、それではならぬのだ、と改めて猛は感じていた。
 人は弱い。それはある意味で自然なことなのだろう。しかし、その弱さに溺れてしまっては、成すべきことを見失う。この世には、強くなければ成せないことがある。仲間たちを守り、地球を救うためには、強くあらねばなるまい。それだけが自分にできる償いならば、たとえ苦しくともやり遂げてみせたいものだ。猛はそう願った。
 そうすれば、いつか彼らに会う時には、胸を張って会えるだろう。彼らも許してくれるだろう。
 猛は、もう一度窓の外へ目をやって、兄と仲間たちの面影を探した。だが、猛の瞳に映るのは、無数の星々の放つ冷たい輝きだけであった。それでも、彼らがそこにいてくれるだろうことを、猛は信じた。
 冷たくも美しいその光の中に――。
 あるいは、それらの出来事は、猛の弱さが生み出した、猛にとって都合のいい幻だったのかもしれない。だが、猛の性格ではそうは思えなかった。猛にとって、それは魂の交感であり、魂だけの存在になっても自分を見守っていてくれる者が存在することの証である。
 もはや、彼らには、愛する者を守ることは叶わない。
 だから戦おう。
 彼らの愛した人々の生きる地球を救うために。そして、共に在るかけがえのない仲間たちを守るために……。
 そう思うことは、猛を迷いの鎖から解き放った。だが、彼の心を満たす透き通った不思議な感情は、依然として立ち去ろうとしなかった。
 それは、悲しみでもなく、寂しさでもない。
「一緒にさようならを言おう。」
 そう呟くと、猛は、星の輝く宇宙に背を向け、傍らの小さな机の上に視線を投げた。そこには、自室から持って来たトランペットが置かれている。磨き込まれて鈍い輝きを放つそのトランペットは、演奏家だった両親が残してくれた、唯一の形見だった。他に大切な物とて持たぬ猛は、このトランペットと兄の写真だけを、私物としてハヤトに積み込んで来たのである。
 最近は手にする機会も少なくなっていたが、両親を亡くして間もない頃、寂しい時や悲しい時は、いつもこのトランペットを吹いたものだった。そうすることで、亡き人々に触れられる気がした。幼かった猛には、それ以外に気持ちを紛らわす手立てがなかったのだ。
 そして、今もそれだけが猛にできるただ一つのこと――。
 猛はトランペットを手に取った。別れを告げたくても告げることのできない者たちに代わって、故郷の星へ別れを告げるために……。

(あら……、トランペットの音?)
 展望室のドアの前に立った舞は、どこからかトランペットの音が聞こえて来るのに気付いて、耳を澄ませた。音を立てないように気をつけて中に入ると、広い、誰もいない展望室で、猛が一人トランペットを吹いている。
(猛さんが?)
 舞はわずかに首を傾けた。
 人は様々な才能を持っているもので、乗組員の中にも、作曲をする者、楽器を演奏する者など、音楽隊が編成できるのではないかと思うほど、音楽的素養を持っている者は多い。舞は歌も歌うがピアノも弾いたし、飛翔はバイオリンが弾ける。飛翔にバイオリンというのは、繊細で華麗なイメージがピッタリだったが、戦闘機で宇宙を駆け巡る戦闘隊長が楽器を演奏している図というのは、何となくピンと来なかった。
 そう言えば、猛の両親は、世界的に有名な演奏家だったと聞いたことがある。きっとその両親の手ほどきを受けたのだろう、と何気なく思いながら猛に声を掛けようとした舞は、ハッとして、開きかけた口を手で押さえた。
 その刹那、猛がここで一人でトランペットを吹いている理由がグッと舞の胸に通ったのである。
 猛は、兄を亡くす前に両親を既に亡くしている。祖父母も亡く、両親が共に一人っ子だったために近い親戚もない。以前そう聞かされたことを、舞は思い出していた。
 剛也や美央のように家族全員無事という恵まれた者もいたが、乗組員たちは、皆、多かれ少なかれ近しい者の誰かを失っている。舞も、遊星爆弾の攻撃で両親を失い、一時は悲嘆に暮れた。だが、別れを告げたい親戚くらいは残されていて、地球で無事を祈ってくれていたし、他の者にしても、家族の誰か、もしくは親戚の一人や二人は無事でいるという者がほとんどで、猛のように真に天涯孤独である者は、ハヤトの中では稀だった。
 つまり、猛には交信相手がいないのだ。
(ごめんなさい!)
 両親を早くに亡くし、頼る親戚もなく、たった一人残された兄も戦いの中で失った。そんな猛が通信室へなど来られようはずがない。
 いつか家族揃って演奏する日が来ることを夢見て、猛の両親は、幼い息子たちに楽器を習わせたのだ。その両親は事故で亡くなり、兄の隼人も戦死して、夢は遂に実現することはなかったのだが、猛は、音楽とはほど遠い今の道に進んでからも、練習を欠かすことがなかったのに違いない。
 今の猛には、こうすることだけが、両親の、家族の、形見なのだ……。
 そう正しく認識しながら、舞は、猛の後ろ姿を息を詰めて見守った。
 それは何という孤独であったろう!
 舞は、今初めて真正面から猛を見たような気がしていた。
 大勢の仲間に囲まれ、その信頼を一身に集めている猛。その猛が、これほどの孤独を背負っていようとは、想像したことがない舞だった。いつも快活で、妙に落ち着いているところはあっても暗さは微塵もなく、それでいて無理をしている様子もない。そんな猛の態度は、接していて心地好く、それが単なる表層に過ぎないという当たり前のことに、舞は気付かないで来たのである。
 猛の家族の事情も、彼が大切に思う仲間たちがハヤトに共にあることも、舞は知っていた。だがそれは、地球に何も残していないということと同義である。その果てしない孤独に思い至らなかった自分を、舞は悔いた。
 響き渡るトランペットの澄んだ力強い音には、しかし、わずかに哀しみの影がある。その音色と共に、猛の心が流れ込んで来るような気がして、舞はそっと目を閉じた。
(見える! 猛さんの心が……。)
 まるで自分の心が猛の心と同化してしまったかのように、舞はその思いを理解した。
 守るべき者は失われ、頼みに思う仲間すらも、傷つき、倒れてゆく。その言いようもない孤独を、猛は一人で越えようとしている。怒りと嘆き、憎しみと悲しみ……。そうした感情から自分自身を解き放ち、傷つきながらも、真の光を求めて浮上して行こうとする者の姿が、そこにはあった。
 だが、猛の全身から流れ出る感情は、その苦しさを語らない。悲しいでもなく、寂しいでもない、そのまま埋もれてしまいそうな不思議な感情が、舞を包むように緩やかに渦を巻き、その穏やかさが舞の心を強く動かした。
 これほどの孤独と戦いながら、これほどに穏やかであれる。それはどれほどの強さなのだろう。猛がこうした強さを持てる人間であったことが嬉しく、舞は自分の胸をそっと抱いた。
(私がここにいるわ!)
 その瞬間、舞はほとばしるようにそう思い、涙が堰を切ったように溢れるのを感じていた。
 猛は決して一人なんかではない。誰が知らずとも、猛のこの思いは自分が知っている。
 舞はそう告げたかった。
 だが、それは必要のないことである。猛は、自分が一人ではないことを知っている。だからこそ、この音色が出せるのだ……。
(ゆっくりね、猛さん。)
 今は邪魔はすまい。彼は一人厳然と訣別をしている。これは、誰も立ち入ることのできない、猛だけの鎮魂の儀式なのだ。
 溢れる涙を静かに拭って、舞は背を向けた。
 この光景は、生涯自分の胸から消えることはない――。
 舞は思っていた。
 これほどに誇り高い男の姿を見ることは、二度はあるまい。そう思えることは、舞自身にとっても誇らしく、ここへ来て良かった、と心底思う舞であった。

 一人三分間の交信は順調に進み、通信室では、ようやくその順番がメインスタッフまで回って来たところだった。これが済めば、交信は終わりである。
「次は飛翔の番ね。交信先は唯子のところ?」
 通信班長までもが生真面目に列に並んでいる光景は、何となく微笑ましい。展望室から戻った舞が、飛翔を見上げて多少冷やかし気味に言うと、飛翔は、
「うん、まぁね。」
と少し照れて笑った。地球に残した美しい婚約者は、彼の唯一の弱点である。
 よくぞ唯子を選んだものだ、と、舞は感嘆する。唯子には派手さはなかったが、可憐な美しさと、どんな嵐にも倒れることのない芯の強さとがあり、それが風にそよぐ秋桜の花を思わせた。そんな唯子を、飛翔は熱愛している。クールな顔をして、大した情熱家なのだ。
「大事な婚約者だものね。」
 照れがまともに顔に出るところが飛翔らしい、と、舞は思い、これも微笑まずにはいられなかった。
「交信時間は三分間です。どうぞ。」
「ありがとう。」
 悪戯っぽく片目をつぶってみせる舞に送られて、飛翔は通信室に入り、椅子に座った。
 手慣れた機械操作だが、唯子への通信となるとさすがの飛翔も緊張する。慎重に手順を踏んで最後にスイッチを押すと、画面がいきなり画像を結び、そこに、胸に描き、夢に見続けた恋人の姿が映し出された。
「唯子!」
『飛翔……。』
 飛翔が呼ぶと、唯子も飛翔の名を呼んで、穏やかに微笑み返す。鮮明だとは言えなかったが、まぁまぁの像であった。
 久し振りに唯子の顔を見て、飛翔の胸は一杯になった。会いたい、声を聞きたい、と願い続けていたはずなのに、それが叶ってみると、何一つ言葉が出て来ない。それをもどかしく思いつつ、二人はただ見つめ合っていた。手を伸ばせば届きそうなのに、たった一枚のパネルで二人は一万光年も隔てられているのだ。
「元気か? 少し痩せたみたいだけど……。」
 気を取り直して、やっと飛翔が口を開いた。
『大丈夫よ、心配しないで。食糧もエネルギーも十分あるし、日常生活には何の支障もないわ。』
 そう言って、唯子はもう一度微笑んだ。変わらぬその柔らかさに、飛翔は少しホッとする。

 二人の出会いは、二年前に遡る。
 宇宙戦士訓練学校に在学中、飛翔は、訓練中の事故で瀕死の重傷を負い、地球防衛軍付属病院に入院した。手術に次ぐ手術で、生命だけは取り止めたが、飛翔は、肉体的にも精神的にも大きな打撃を受け、一時は再起不能とさえ言われる状態に陥った。その飛翔を、専属看護師として献身的に看護したのが、唯子だったのである。
 唯子の励ましで、徐々に気力を取り戻した飛翔だったが、長く辛い治療とリハビリに心を荒さませ、その激しい気性のままにしばしば爆発した。だが、唯子は、一度も負けることなく、常に辛抱強く、もの柔らかくそれに対し、飛翔が自力で立ち直るために力を尽くした。時に優しく、時に厳しく、見守り、叱咤する唯子の誠実な心は、凍り付いた飛翔の心を溶かし、やがて彼は、医者も目を見張るほどの早さで回復して行った。
 心身の回復につれて、飛翔の心に芽生えた唯子への感謝の気持ちは、いつしか愛情に変わっていた。半年以上の長きに渡る二人三脚の闘病生活が、若い二人の間に特別な感情をもたらしたとしても不思議はあるまい。元通り以上というお墨付を貰い、晴れて無罪放免となったその日、飛翔は唯子に交際を申し込んだ。
 入院患者と看護師の間には、世間で思われているほど、ロマンスは生まれない。献身的に尽くす看護師に比して、患者の方は「良き患者」ではいられないことが多いからだ。
 飛翔と唯子に関しても同じようなことが言えるのだが、唯子の励ましに気持ちを切り替えてからの飛翔の努力は並大抵ではなく、それをつぶさに見て来た唯子の胸には、飛翔に対する尊敬の気持ちが生まれていた。それが好意以上の気持ちに変わるのに時間はかからず、熱過ぎる飛翔の想いにやや押される形ではあったものの、唯子は、戸惑うことなく交際の申込みを受けた。
 片や宇宙戦士訓練学校の訓練生、片や地球防衛軍付属病院の看護師。
 忙しい二人には、並の若者たちのようにゆっくりデートする時間もなかったが、二人は深く静かに愛を育んで行った。
 しかし、幸福な時は長くは続かず、予期せぬ運命の嵐が二人を引き裂いた。
 デイモスの攻撃を受けて、地球は絶滅寸前の危機に陥り、半年の入院のブランクを見事に埋めてコーストップの成績で訓練学校を卒業した飛翔は、ハヤトの乗組員として、遠くアンドロメダ星雲へ向けて旅立つことになったのである。
 何者の采配なのか、運命の皮肉は二人が共に旅立つことを許さなかった。
 ハヤトで旅立てば、二度と唯子に会うことは叶わないかもしれない。一方、地球に残れば、生きるにしても死ぬにしても、ずっと唯子と共にいることができる。唯子の地球残留がもはや動かし難いと知った時、飛翔は悩みに悩んだ。
 もし、ハヤトの計画に何の望みもないと思えば、彼は、迷うことなく地球に残ることを選んだだろう。だが、飛翔には、どうしても一縷の望みを断つことができなかったのである。
 無論、飛翔とて成功の確率は高いとは見ていなかった。しかし、少しでも可能性があるなら、それを信じ、その実現のために働きたい。それが、瀕死の故郷の星を救い、愛する人を守ることでもあろう。そんな思いが遂に胸を去らず、飛翔は決断した。
「俺は行くよ、唯子。」
 飛翔は思い詰めた顔でそう告げた。
「アンドロメダ星雲は遠いし、途中何が起こるかわからない。でも、俺は必ず帰る。他の乗組員が全員死ぬようなことになっても、俺だけは絶対に生き延びて、帰って来てみせるよ。」
 熱に浮かされたような飛翔の言葉を聞きながら、唯子は、自分の心が真っ白になって行くような虚しさを感じていた。
 唯子には、飛翔の言うように、ハヤトが無事に戻って来られるとは、とても思えなかった。幾らティアリュオン星の援助があったからと言っても、あの恐ろしいデイモス相手に勝てるとは到底信じられなかったし、アンドロメダ星雲までの二百二十二万光年を往復するなどということに至っては、想像すらできなかった。
 泣いて行かないでくれと言えれば、どんなにいいだろう。だが、それで思い止まる飛翔ではないことを、彼女は知っていた。これが飛翔の愛し方なのだ……。
 唯子がぼんやりとそう思った時、飛翔は、一層思い詰めた顔で、突然、
「だから婚約しよう。」
と言った。
「えっ?」
 さすがに唯子は驚いて、長身の飛翔の顔を見上げて瞬きした。
 飛翔と付き合い始めて既に一年以上が経ち、いつかはそういうこともあるかもしれない、と漠然と思うようになっていた唯子だったが、まさかこんな場面で切り出されるとは、予想もしていなかったのである。
「君が待っていてくれていると思うから、俺は頑張れる。どんな場面でも、冷静に生き延びる努力をすることができると思うんだ。そうやってせっかく帰って来たのに、肝心の唯子を他の野郎に横取りされてたなんてのは、ごめんだからな。」
 最後を冗談めかして飛翔は笑い、その屈託のなさにつられて唯子も思わず笑ってしまった。
「わかったわ、飛翔。」
 その瞬間に、唯子は、自分の気持ちがはっきり決まったような気がしていた。
「私、待ってます。あなたを信じて待っているわ。」
 唯子は優しく微笑み、静かに頷いた。
「だけど忘れないで。私がそうやってあなたを待っていることを。必ず無事に帰って来てね。」
 離れ離れになることが、避けられない二人の運命なら、せめて笑顔で見送りたい。そして、無事な帰還を信じて待つことこそが、その激しい愛に応える道であろう。
「唯子! 約束する。絶対に帰って来るよ。君を泣かすようなことはしない!」
 そうした唯子の心が痛いほど伝わり、飛翔は唯子を抱き締めた。その体の重さと暖かさを飛翔は忘れたことはない。

 今、パネルの向こうで、唯子はあの時と同じように微笑んでいる。表面はおとなしく、儚げでも、芯は強い。その強さを飛翔は愛したのだが、今はそれも悲しく思える。
『ハヤトの方はどう?』
「うん。今のところ順調だよ。」
 当たり障りのない航海の様子などを話しながら、飛翔は苛立たしさを覚えた。
 何という会話だろう。もう二度と会えないかもしれないというのに、何かもっとましな話ができないのだろうか。交信時間はたったの三分しかないのだ。
『飛翔。』
 その時、見上げる唯子の視線がゆらりと揺れ、飛翔はドキリとした。
『帰って来るわね……。必ず……。』
 次の瞬間、唯子の目から一筋の涙が溢れて落ち、飛翔は、思わず椅子を鳴らせて立ち上がった。
『放射能障害で、毎日何人も人が死ぬわ。でも、どうすることもできないの。私、何もしてあげられない。何も……。』
 放射能帯の降下に従って、放射能漏れも少しずつひどくなっていた。放射能障害の患者は増える一方で、どんなに手を尽くしても、弱い者から一人、また一人と死んで行く。看護師という仕事柄、人の死に接することも少なくない唯子だったが、幼い子供たちが次々に死んで行くのを見るのは辛かった。そうした辛い気持ちを、唯子はその独特の柔らかな強さの中に押し包んで来たのだが、飛翔の顔を見て、張り詰め通しだった気持ちが一気に緩んだらしい。
 唯子は、こらえ切れぬように低く嗚咽し、
『会いたい! 飛翔に……。もう一度……。』
と絞り出すように訴えた。
「唯子……!」
 地球は一体どんな状態なのだろう、と、飛翔は暗澹とした気持ちになった。先刻の通信では、郷田は特に放射能漏れについては触れなかったが、そんなにひどい状態なのだろうか?
「大丈夫だ! 大丈夫だよ。」
 飛翔は思わず手を延ばしたが、それは虚しくパネルに遮られた。
 自分のことでなく、他人の苦しみを救えないことで苦しむのは、いかにも唯子らしかったが、これほど取り乱した唯子を見るのは初めてだった。気丈を装っていても、よほど辛いのだろう。最愛の女性が一人苦しむ姿を見るのは、ザックリと胸をえぐられるような苦しさで、飛翔は、初めて唯子の側を離れたことを悔いた。
「約束したろう。俺は必ず帰る。必ずコスモクリーナーを持って帰って来るよ。そうしたら結婚式だ。必ずまた会える。」
 少しでも愛する者に近づきたくて、飛翔は画面に顔を寄せて囁いた。
『ええ。……ごめんなさい。』
 唯子は頷き、涙を指で払った。それは、笑顔で送ろうとして涙を見せてしまったことの詫びであったろう。飛翔の胸に愛しさが込み上げた。
「唯子……。」
 その名の通り、宇宙でただ一人の愛する人。飛翔は、画面の中の唯子にそっと口づけした。
 それは、一万光年隔てたガラス越しのキス――。パネルの感触は固く、冷たい。
 ジジ、と雑音がした。画面は既に乱れ始めている。期限の三分間が過ぎようとしているのだ。
「愛しているよ、唯子。元気で。」
『飛翔もね……。』
 離れ難く見つめ合う二人の視線が、突然ブツリと切れた。交信は終わったのである。
 静まり返った通信室に、唯子の潤んだ瞳が一杯に蘇った。いつも穏やかに微笑んでいた唯子が、遠く離れて一人苦しんでいる。それが心にキリキリと痛かった。
 しかし、今の自分には、その苦しみを癒すことはできない。抱き締めてやることすらできないのだ。
「なぜだ!」
 必ず帰る。必ずまた会える。その約束を、自分は果たすことができるのだろうか?
 何の確証もなく、ああ言ってみせることしかできない自分の無力が思われて、飛翔は唇を噛み、思いきり拳を握り締めた。長い間、心の底に沈めて来た思いが、再びドロドロと沸き上がって来る。
 なぜ、地球がこんな目に遇わなければならないのだ!
 なぜ、唯子が泣かなければならない!
 なぜ、俺たちは離れ離れなのだ!
 なぜ! なぜ!
 それは、問うてみても虚しいだけの、少年の嵐のような激情であった。だが、今の飛翔には、そう問う以外に術はない。俯いた飛翔の両眼から、ポトリと涙が落ちた。熱い涙であった。

 パーティ会場には、プラネタリウムが当てられていた。全面スクリーンとなったドームには地球が映し出され、部屋の中央には、娯楽室から持ち込まれたピアノが置かれている。沖田の計らいで、特別にアルコールも少量用意され、生活班のコックが腕に撚りを掛けて作った料理と、美央が自らアレンジした花々が、テーブルを華やかに彩っていた。
 乗組員たちは、食べたり飲んだりしながら、お互いに地球の家族のことを自慢し合い、陽気に騒いでいた。華やいだ雰囲気だったが、どこかに物悲しさが付きまとっている。それは、楽しくて、哀しく、やるせないパーティだった。
 展望室から戻って来た猛は、部屋の隅の方の壁に寄り掛かってポツンと座り、仲間たちの様子を黙って眺めていた。
 もう暗い想念からは解放されていたが、今日ばかりは、彼らと一緒に騒ぐ気にはなれなかった。自分と同じように地球に別れを告げることができない者たちのことを、せめて自分だけでも、じっと大切に思っていたかったのである。
「ここにいたのか、本城。」
「艦長!」
 顔を上げると、コップと酒の瓶を抱えて、沖田が立っていた。
「お互いあっちこっちを弾き出されたな。どうだ。お前も飲まんか。」
 沖田は、猛の横にドカッと腰を下ろすと、グイ、と手にしたコップを差し出した。
「艦長……。」
 若い頃に妻を亡くし、一人息子を冥王星海戦で亡くした沖田も、ハヤトの中では数少ない交信相手のない者の一人だった。猛はそれを思い出し、自分と同じ思いを抱く者がここにもいることに、救われるような気がしていた。
 家族や友人、部下たちを失った悲しみ、敵への怒りと憎しみ、無力な自分への嘆き。
 そうしたものを全て乗り越えて、沖田は今、巌のように泰然として在る。自分のたどった道は、恐らく沖田も一度は通った道なのであろう。そう思うと、沖田との距離が一気に縮まったような気がして、猛は嬉しかった。
「心配するな。一応ノンアルコールだ。」
 悪戯ってぽい表情の沖田に、猛の気持ちもほぐれる。
「いただきます。」
 猛は座り直し、気も取り直して、そのコップを受け取った。かつては、兄のことが喉に刺さった小骨のように引っ掛かったこともあった猛だが、今は沖田の下で働ける幸福がしみじみと思われた。
 そんな二人を遠くから見ていた舞は、ホッとしたように笑みを浮かべた。
 舞は、猛がここへ来たことが嬉しかった。沖田の差し出す杯を素直に受け取ることのできる猛が誇らしかった。もし、自分が猛と同じような立場だったら、交信の話題で持ち切りのこんな場所には来る気になるまいし、沖田に対しては、兄のことでわだかまりを持つだろう。
 だが、猛には、そうした己の負の感情を己で克服しようとする強さがある。その克己心がある限り、猛は決して進むべき道を誤ることはあるまい。
 会場の一角がドッと沸いた。例の如く大騒ぎをしているのは、戦闘隊の面々である。だが、彼らは、誰一人として猛に声を掛けようとはしなかった。それは、無視しているわけでも、冷たいわけでもない。そうすることが猛にとって一番良いということを、皆理解しているのだ。
「ああ、涼くん。さっきはどうもありがとう。」
 舞は、近くを通り掛かった涼を呼び止めた。全て知っていて、敢えて何も言わず、自分を展望室へ行かせてくれた涼に、礼を言いたかったのである。
「何が?」
 涼は、とぼけながら、それでもニヤッと笑ってみせる。
「ううん、いいの。何でもない。」
 舞も、それに合わせて笑って首を振った。
 さしずめ、この涼などは、猛の最大の理解者なのだろう。涼だけでなく、戦闘隊のメンバーたちは、猛の孤独もその強さも、よく知っているのだ。そして、だから皆、猛が好きなのだ……。
 今日は、そうした様々な事が一度にわかった日だったような気がする。
「そんなことより、舞。せっかくこうしてピアノが出てることだし、久し振りに何か歌ってくれよ。」
 涼が言うと、後ろからバイオリンを手にした飛翔がやって来て、
「たまにはな。腕が鈍る。」
と、バイオリンの弓で舞の頭をコツンと叩いた。
 飛翔のバイオリン、舞のピアノと歌。それは、訓練生時代からの名物だった。よく親睦会の余興などに引っ張り出されては、二人で演奏したものである。
「いいね。舞の歌も久しく聞いてない。頼むよ。」
 脇から独が口を添え、
「そうね。」
と、舞は微笑んだ。
 飛翔の端麗な横顔に、涙の跡が残っている。唯子との最後の交信は、飛翔にとって辛いものだったのだろう。その激しさは、それとは対照的に穏やかだった猛の思いを、舞に思い出させた。だが、それは、優劣や好悪といったものではない。
 怒りと悲しみ、希望と愛。
 銀河の果てで渦を巻く、そんな人間たちの思いは、しみじみと切なく、そして愛しかった。
 久し振りに歌うのも悪くはない。せめてこの思いが、この祈りが、傷む者の心に触れるよう、愛する者の元へ届くよう――。
「曲は何にする?」
「決まってるだろ。」
 舞の問に、飛翔はそう答えて背を向けた。舞も頷き、ピアノに歩み寄る。椅子に座ってピアノの蓋を開けると、白い鍵盤が微かに光を弾いた。いつか、猛のトランペットを加えて演奏してみたいものだ、と舞は思う。それは、どうした音色になるのだろうか。
 舞は、そっと手を延ばした。細い指先が慎重に最初の音を鳴らし、静かなイントロが流れ始める。組曲『銀河』の終曲、『銀河より愛を込めて』。乗組員たちの今の気持ちを、そのまま表したような曲であった。

 今 艦はゆくよ
 輝く銀河の腕を抜けて
 光も疎らな闇夜へと
 幾千万の星が送る
 誇らかに緩やかに 別れの歌を歌いながら
 懐かしい故郷の星を振り返っても
 光の中に君はいない
 それは君の生まれるずっと前のきらめき
 君の見上げる夜空にも僕はいない
 それは遠い過去の世界
 僕等は閉じ込められている
 だけど思いはきっと届く
 宇宙を駆け時空を越えて 必ず出会う
 それを信じて僕は手を振る
 花咲く故郷で待つ君に
 遥かなる 遥かなる銀河より 愛を込めて

 艶やかなバイオリンの音と、澄んだピアノの音、伸びやかな舞の声が、お互いを引き立てながら響き合う。自分の激情をそのままぶつけた飛翔のバイオリンの音色と、悲しみも苦しみも超越して、ただ透明な愛だけを乗せた舞の歌声。
 それは、乗組員たちの心を、深く強く揺さぶった。
 本当に、デイモスの攻撃を退けながら、二百二十二万光年を踏破して、ティアリュオン星にたどり着くことが出来るのだろうか?
 乗組員たちの胸には、常に重苦しい不安と恐怖があった。しかし、それでも、未来を信じてハヤトはゆく。そして、必ず戻って来る。故郷の星を救い、愛する者たちを守るために……。
 そうした感慨が潮のように皆の胸を浸し、いつしか会場はしんと静まった。乗組員たちは、歌に送られるかのように次第に遠ざかって行く地球の姿を、じっと見つめ続けた。それは、故郷の星との別れであった。
 曲が終わると、美央を始めとする生活班員が、グラスの並んだワゴンを押して現れ、全員に飲み物を配り始めた。
「はい、猛さん。どうぞ。」
 呼ぶ声に顔を上げると、目の前で長い髪が揺れていた。
「舞。」
 舞がわずかに膝を折り、自分の顔を覗き込むようにして、グラスを差し出している。それを受け取ろうとして微かに指が触れ、その瞬間、猛は、今日一番会いたかった者に会ったような気がしていた。
 この娘が、自分の守るべき者なのかもしれない――。
 その漠然とした感じは、しかし、やはり明確な言葉にはならなかった。刻々小さくなってゆく地球が、今まさにスクリーンから消えようとしていたからである。
 乗組員たちの目がスクリーンに注がれる。再び万感の思いを込めて、彼らは故郷の星に別れの挨拶をする。その別れがしばしのものであるように、彼らは祈る。
 猛も立ち上がって天を仰いだ。その隣に寄り添うように舞が立つのを、幸せだと猛は思う。
 火星、木星、土星、天王星、海王星、冥王星……。
 やがて、感傷を込めて、彼らの故郷太陽圏が彼方へと去って行った。ハヤトは、銀河系から一歩を踏み出したのである。
「映像可能距離を離れてしまいました。これより先、受信映像は不可能です。」
「これでパーティを終了する。」
 沖田の声が厳かに響いた。

 ワープの成功や幾つかの戦いでの勝利は、ハヤトの前途に明るいものを感じさせはしたが、デイモスの陰謀は深い。
 必ず帰るから――。
 誓いの言葉を胸に繰り返し、未知の宇宙への道を踏み出したハヤトは、アンドロメダへの旅を続ける。行く手に待っているのは、デイモスの魔の手だけか。旅路は遥かに遠い。

 さらば我が故郷太陽圏よ。銀河より限りなき愛を込めて。
 地球滅亡と言われる日まで、あと二百九十八日。