辞書で調べると、
「その国固有の文化や伝統に根ざした
スポーツ競技・武術を指す。
しかし、厳密な定義は存在しない。」
と、書かれてある。
う~ん。
なるほど。
最近の角界をみていると、
その定義のあいまいさが良くわかる。
国技としての
「相撲」は
いったいいつから
こんなことになってしまったのか。
私は小さい頃、
じいちゃんの膝の上でテレビの相撲中継をみるのが好きだった。
いま思えば
大好きなじいちゃんと一緒にいること
が嬉しかったのと
純粋に「相撲」を
楽しんでいたように思う。
ヒールという位置付けでの
存在ではなく、
強すぎて憎らしい
という
本来あるべき
横綱としての姿。
外国人力士の
ひょっとしたら
私達日本人以上に日本が好きなんだろうな
と思わせる言動。
そんな
「国技」としての
重み・責任を
当時の力士達は
皆、自覚していたように思うし、
だから
おもしろかった。
優勝パレードで
自国の国旗を
掲げる外国人横綱や
勝負が決まったあとに
さらにダメ押しをしたり、睨んだりする人。
土俵上でガッツポーズする人。
相撲休んでサッカーしちゃう人。
あっ
これ全部同じ人でした(笑)
この人は
「相撲」をただのスポーツだと思っている。
でも最近
大麻で逮捕された
力士の処分を
「かわいそうだから」と、
一番重い処分には
しなかった相撲協会においても、
その自覚が
足りないのでは?
と
思わざるをえない。
先ほどの外国人横綱のかたも、
その素行の悪さや
キャラから
「ヒール」として
位置付けられているだけであって、
決して昔の横綱
のように
「心・技・体」
が備わった上で
強すぎるから
憎まれているわけではない
ということに気付いてほしい。
気付きながら
ただのスポーツや
ビジネスの意味合いで
相撲をとっている
確信犯
でないことを祈るのみだ。
今日はお店が休みで
酒も飲んでないので
、
ちょっとマジメな
話をしてしまった。
でも
国技としての相撲を愛していて、
いまの角界に不満を抱いているのは
私とやくみつる
だけではないと
思うのだが…。
「その国固有の文化や伝統に根ざした
スポーツ競技・武術を指す。
しかし、厳密な定義は存在しない。」
と、書かれてある。
う~ん。
なるほど。
最近の角界をみていると、
その定義のあいまいさが良くわかる。
国技としての
「相撲」は
いったいいつから
こんなことになってしまったのか。
私は小さい頃、
じいちゃんの膝の上でテレビの相撲中継をみるのが好きだった。
いま思えば
大好きなじいちゃんと一緒にいること
が嬉しかったのと
純粋に「相撲」を
楽しんでいたように思う。
ヒールという位置付けでの
存在ではなく、
強すぎて憎らしい
という
本来あるべき
横綱としての姿。
外国人力士の
ひょっとしたら
私達日本人以上に日本が好きなんだろうな
と思わせる言動。
そんな
「国技」としての
重み・責任を
当時の力士達は
皆、自覚していたように思うし、
だから
おもしろかった。
優勝パレードで
自国の国旗を
掲げる外国人横綱や
勝負が決まったあとに
さらにダメ押しをしたり、睨んだりする人。
土俵上でガッツポーズする人。
相撲休んでサッカーしちゃう人。
あっ
これ全部同じ人でした(笑)
この人は
「相撲」をただのスポーツだと思っている。
でも最近
大麻で逮捕された
力士の処分を
「かわいそうだから」と、
一番重い処分には
しなかった相撲協会においても、
その自覚が
足りないのでは?
と
思わざるをえない。
先ほどの外国人横綱のかたも、
その素行の悪さや
キャラから
「ヒール」として
位置付けられているだけであって、
決して昔の横綱
のように
「心・技・体」
が備わった上で
強すぎるから
憎まれているわけではない
ということに気付いてほしい。
気付きながら
ただのスポーツや
ビジネスの意味合いで
相撲をとっている
確信犯
でないことを祈るのみだ。
今日はお店が休みで
酒も飲んでないので
、
ちょっとマジメな
話をしてしまった。
でも
国技としての相撲を愛していて、
いまの角界に不満を抱いているのは
私とやくみつる
だけではないと
思うのだが…。