さて、昨今の常識を考えてみると、何もかもがマーケティングの延長上で誰かの為にその常識が決められていると分かる。例えば、大学を出て就職して立派に勤め上げるという流れである。これは、定められた道に保証を掲げて独立を危険なモノと相対的に匂わすやり方で、雇用の促進と成熟した市場の安定(競争の減少)に効果が期待できる。

 

さて、このやり方は意思の弱い人を選り分ける優れた仕組みであろう。ただし、競争の減少による市場の停滞につき大手企業が小手先のマーケティングをする様になった。それが常識として定着していく内に市場の拡大がなされはした。それは、より短期に効果が現れる素晴らしい技術という宣伝の上に弊害を記すことはない、無責任かつ伸びしろの少ない市場の拡大に他ならなかった。

 

それこそ、恋愛市場におけるメンタリズム(脈ありサインや恋愛テクニック)や健康市場におけるサプリメント(これを摂取すればあの人の様に健康になれる)、トレーニングにおけるウエイト至上主義(設備がなければ重量の取り扱いができない)などである。

 

誰かの為に間接かつ自発的な課金を喜んでする事が市場の健全な流動というモノであるが、まがい物に出資をすれば当然に市場の衰退が加速すると分かるだろう。そういった、まがい物ですらも素晴らしいモノと錯覚させてしまうほどにマーケティングの威力は絶大であるのだ。

 

では、そういったまがい物が溢れた市場の末路はどうなるのだろうか?

それは、サブプライムを思い出せば良い。

 

そうして、マーケティングから価値に視点が移るのがこれからである。

また、仮想通貨の台頭やウェブアカウントの普及による情報伝達における障害の消滅が、不特定多数に対するアマチュア向けの広告を一掃する原因となるであろう。なぜなら、より優れた情報共有のコミュニティがあるのに、昔ながらの浅く広いコミュニティに留まる理由が無いからだ。

 

それこそ、「若者のテレビ離れ」という言葉が全てを表している。テレビと動画共有サイトへの人口の推移を考えれば、他も共通してその流れを汲む事が分かる。

 

円やドルがテレビ局だとすれば、ビットコインはヒカキンであろう。

スポーツクラブからパーソナルトレーナー、雑誌からインフルエンサーなど周囲を見れば枚挙にいとまがない。それほどに独自のメソッドや本当に価値があるモノを求める動きが活発になっているのだ。

 

大手の不祥事が明らかになればなるほどに、大衆の心理における「ブランド」が安全の象徴から危険の象徴へと変化していく。なぜならマーケティングの正体が所詮、洗脳や煽動に過ぎないと大衆向けのメンタリズム本が明らかにしてしまったからである。誰でもできる事には価値が無い。

 

そうして、市場の停滞が大手と大衆の技術力に大差のない状態となったが故に、億り人やインフルエンサーが産まれたのだ。大企業の無能な運営陣様様である。

 

そうして今求められるのは、本当に素晴らしいモノや継続的な成功の道しるべに他ならない。体験と成果に基づく結果を誰しもが望んでいる。それこそが時代の変化の過渡期である今に求められるモノであろう。