さて、色々なものが情報化されてSFの世界も夢でなくなり出したこの頃。
人体も電子化がなされるのではないかと危惧する。
なぜなら、責任や痛みというものがダイレクトでなくなり出しているという事よりだ。
株式や仮想通貨の投機的な取引などに代表されるような、
サヤを狙った手形による取引では、大きな成功を得られようとも、失敗も伴う。
問題はその金額が現実とかけ離れている事からだ。
ギャンブルと同義といっても過言ではないだろう。
大衆の心理に、見えざる者達の意図、個人では情報を到底網羅しようがないのだ。
アルゴリズムを見つけようとすぐに書き換わる。加えて、恐怖が指先を重くする。
考えれば思考が先行し行き詰まり、考える事なしにはギャンブルとそれは変わりがない。
その中庸を取れば両方が足りなくなる。
経済は人が考えるにはあまりに複雑であり、
人が考えたプログラムも所詮その程度の思考しかしようがない。
構成がわからないモノをどうしたって支配できないのだ。
秘密裏に誰かが何かをすればそれが例外(イレギュラー)となり、
そのイレギュラーはその取引に関与する誰しもが行いうる。
なぜなら、痛みや恐怖と隣り合わせであるはずの弱者であれば、
そういった感覚が麻痺し蛮勇を働く為である。
経済的に豊かであればどうか?
それも、その「豊か」となるまでにどの様な過程を経たかが問われ、
大抵が一攫千金のように今だけを見つめ、この成功を永遠と見紛う。
では、大抵ではない少数はどうか?
それは、全ての金銭を自らが把握し、取り扱いの領域をより専門的なものにする。
「それの絶対数が少ないほどにそれは価値を持つ」
これは、経済という仕組みの中で最も重要な概念である。
そしてその適用しうる範囲は本人のスケール次第である。
誰しもがしうる領域で王となる事ができても、王であり続ける事は出来ない。
誰しもがたどり着け得ないはずの安住の領域を得てこそがアガリである。
それこそが発展であり、その領域の先駆者にのみ成功が保証される。
「開発者であれ」と言いたいわけでなく、「支援者であれ」と言いたいのだ。
支援者であると言う事は、
個人として専門的な知識を持ちつつ、その領域の「天才」に経済的な支援をする。
外見だけで言えば、「天才」と「天才に見えるペテン師」は紙一重であり、
そこに必要な事は学習をする努力と、人を見る目である。
詰まれば、人間を理解できなければ有象無象に儲けを還元させざるを得ないのだ。
金の得るための苦悩のみがその人の1円の重みを作り出す。
全てが、他人の言う裏打ちの無い投機に賭けるか、
自らが見出した投機に賭けるかなのだ。
次回は、現実と仮想の狭間で#2 To be continued...