さて、

二月一日 午後二時 書いていこう。

こうして、昼の時間が過ぎていく。

 

ネタ帳を開き、思い立った事を書き並べ、無意識にコーヒーを口に含む。

そして、ノートに書かれた過去の記録をたどり、ノートを閉じて考えにふける。

 

だんだんと思いつきがお互いに反応し結びつき、形となっていく。

一時間後、思いつくままにノートにその記録をノートに書き写す。

 

これをベースにして、文字に起こしていく。

 

気をかけている点に、文章は読み易くなる様に「、」や「。」で改行をする事と

空間の行を用いる事で文ごとにきっちりと独立した意味を与える事がある。

 

いくら、分かり易く書いても察するべき所にまで時間をかけては最後まで記せない。

昔から変わらぬ事なのであろうか、文字通りの「竜頭蛇尾」となってしまう。

 

だが、思うがままに文字を起こしては、後になり理解に苦しむのだ。

そうして、読解を要するべき事のままであれば記録としての価値はない。

情報の手軽さと優しさが学習に最も必要とされている為である。

 

情報は鉱石の原石と同じで磨けば光るのだが、擦り減れば鈍く輝く事しかできなくなる。

 

「何事も完璧を求めれば自由が無くなる。」

 

応用の先にあるものを定義づけようとするから得られない。

謎や計り知れないものこそが魅力なのだ。

人としての経験に基づく哲学は生き様からなるに他ならない。

 

ガラスの宝石もダイアモンドも輝く石である。

希少性や特殊であるとかそういった理由で価値が違うに過ぎない。

 

マニュアル化された感動は気味の悪い洗脳と変わらないだろう。

 

感動とは適切な逸脱であり、努力と苦悩が生む成長である。

 

横や下に逸脱をし、見世物としての価値はあってもそれは意味がない。

ただ、収益の魔力はそこにある。

 

没落は見栄や欲望のために信用を裏切る事であり、

いくら大金を得ても最後には無に帰す。

いや、大金を得たという過去が大きな負債となるのだ。

 

誰にだって一度は日が当たるものである。

ただ、没落にて日が当たっていた事に気がつくのだ。

 

誰もがチャンスを得られる。

ただ、今のありきたりな幸せを愛せなければ、

何を得たところで幸せになりようがないのだ。

 

「人の欲はキリがない、求め過ぎて破滅する。」(映画リミットレスより)

 

幸せを考える。

自分であればこうだ。

 

好きな時に気に入った女性と交わり、美味しいものを食べて、ゲームをして、

朝に目覚め、昼はコーヒーを飲みながらいろいろな事を考え、夜はアルバイトをする。

 

うむ、そのままの飾りのない欲望を当然に満たすことではないだろうか? 続く....

 

次回は、

「私、貧乏人めの一日#2」 To be continued....