青柳 孝予の 「どんな自分も美しい ー 奇跡に溢れた変化の法則」 -4ページ目

青柳 孝予の 「どんな自分も美しい ー 奇跡に溢れた変化の法則」

私たちには、いくつもの顔があり、そのどれもが驚くほど美しくて。


人生は、変化の連続です。時に大きな、時に小さな。

その変化の波に美しく乗ることで、想像もできなかった未来の自分に出会ってみませんか?

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こんにちは、青柳 孝予です。


初めまして!

今日は少し、私の物語をシェアしますね。



私は、東京世田谷の商人の家に、長女として生まれました。

祖母の家系も下町で大きな商いを営んでいた関係から、生まれたときから、まったくお金には困りませんでした。

ものすごくお金持ちというわけではなかったのですが、欲しいものに困ったことはなかったですね。

私には弟も二人いるのですが、私の家族は、非常に個人主義が強かったというか。

私とは、性格もかなり異なる兄弟だったし、この頃の私は、かなり内向的な性格が強かったので、家族というコンセプトがよく分かりませんでした。



私の幼少時代、日本の景気は益々よくなり、バブルに向かって加速していきました。

そんな時代の中、両親は共に夜中まで働いていたので、子ども時代の家族の思い出なんて、ほとんどありません。

ただ、毎年春休みには、日本で一人働いている父抜きで、母と祖父と弟二人と、ハワイに2週間ほど滞在していました。

ハワイも今と違って、日本人はほとんどいなかったので、あれが私にとっての異文化体験のきっかけですね。

これが幼稚園の頃からの、私の家族のお約束でした。

そして、パワフルでちょっと変わった母のポリシーである、「お金は見えるものにではなく、体験に使う」という価値観が、私の中に染み付いていきましたね。



そういえば、あの頃の小学校は、クラスでイジメが流行っていました。

ものすごく暴力的なイジメではなかったですけれど、クラスの友達が、代わる代わるいじめられていました。

なぜだか私には、直接の被害はなかったんですけれど。


ただ、人と組むのが嫌いだった私は、イジメているグループに関わるというよりも、放課後にこそっと、いじめられている子たちと話したり、遠足のときに、バスで一緒の席に座ったり、私なりに友達でい続けました。


だって、その人と友達でいるかどうかなんて、自分が決めればいいじゃないですか。


あの頃から、私は意味もなく人とつるむことは嫌いだったし、きっと子供心にも、何が正しくないかは分かっていたんだと思います。



学校には人気者のグループがあって、それはもう、私の目にも華々しかったです。

そしてそのグループに入れるかどうかで、クラスの中での立ち位置が決まってしまうことに、子どもながらに違和感を覚えていました。

正直、ある一人の人が自分の生き方の選択権を持っているだなんて、私には絶対に受け入れられませんでした。

だからみんなとは付かず離れず、何となくの一匹狼のスタンスは、この頃に確立されたんだと思います。


中学校は、この路線がさらに濃くなりましたね。

家の近くの女子校に入り、朝からキリスト教の礼拝がありました。

私は自分の原罪と毎朝向き合い、自分は常に不完全な個なのだと思っていました。

特に目立つ性格ではなかったし、内向き度合いは未だに強かったので、なんとなく学校の友達のグループには入りませんでした。

というか、自分の居場所を完全に感じることのできる場所は、大きなケヤキの樹があった、放課後の校庭だけだった思います。

あの頃は、とにかく毎日、本の世界に没頭することで、自分の存在意義を見つけ出そうとしていた時期だったと思います。

青いですね(笑)



それが高校からは、間逆の生活になりました。

学校の外に、活動場所が生まれたからなんですね。

別に非行の道に走ったわけではなくて、同世代の友達らと、春、夏、冬はスキーや湖へキャンプへ行き、それ以外の日は、ほぼ毎日、色々な企画をしていました。

あの頃の私は、みんなを引っ張っていく役に、いつの間にか変わっていました。

それが自分にとっては、当たり前というか。


人生で初めて、「死んでもいい程に楽しいことがある」のだと、気づかせてもらえた日々でした。

対外的には、何かを成し得たわけではないんですけれど、自分の内面の世界が、一気に花開いた時期でした。



しかし、ある時、このまま楽しいだけの生活を送ると、自分は絶対にだめになると勝手に思い込み、ふとしたきっかけで、高校3年の夏、1年間だけアメリカに住むことになりました。

あれだけ仲が良かった友達がいたのに、私は勝手にその関係を切り、新たな世界を模索し始めました。

こういうところ、とても自分勝手ですね。


だからですかね、人口200人しかいないような、アメリカの小さな田舎町での高校生活は、かなりハードな日々でした。

今みたいにインターネットがあるわけでもなく。

それこそ、明治や大正、昭和の時期の、「日本をこれから引っ張っていく人たち」のように、いかなる困難をも乗り越える、そんな高い志があったわけでもなく。

ただ、私がアメリカに行きたいと言えば行ける環境だった、そんな甘ちゃんの私でした。

もちろん、英語がほとんど話せなかった私には、思春期のアメリカ人との交流はきつかったですね。


それでも、思い出ってやっぱり美しいですね。

あの頃の私は、親にべったり依存しつつも、がむしゃらに生きていたかったんだと、今ならこうやって思えるのですから。



ちょっと話が長くなってきましたね(笑)

アメリカから帰国した後の話は、青柳 孝予のストーリー(2)へと続きます。




あなたの毎日が、もっと大胆に、そしてもっと美しくなりますように...


どんな自分も美しい
 青柳 孝予




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