次に会ったとき、
もう“少しだけ”という言葉は
意味を失っていた。

会うこと自体が、
もう特別な意味を持っている。

部屋に入った瞬間、
少しだけ空気が変わる。

静かすぎる空間。

逃げ道がないわけじゃない。

でも、戻る気はなかった。

彼の視線が、
いつもより近い。

「無理しないでくださいね」

そう言いながら、
手を伸ばす。

その優しさが、
逆にずるいと思った。

断る理由を、
全部消していく。

「大丈夫」

自分からそう言った。

その言葉の意味を、

ちゃんと理解しながら。

触れられる。

前よりも、はっきりと。

腕、肩、背中。

ゆっくりと、
確かめるように。

そのたびに、
体が少しずつ応える。

驚くほど自然に。

気づけば、
自分からも手を伸ばしていた。

彼の腕に触れる。
思っていたよりも、
現実的な感触。

温度と、重さ。

それを確かめるみたいに、
指を動かす。

「…こっち」

小さく言われて、少しだけ近づく。

距離が、
もうほとんどない。

息がかかるくらい。

その状態で、
少しだけ止まる。

最後の線を、
どちらが越えるかを待つみたいに。

でも、
その線は曖昧だった。

どこからが越えることになるのか、
もうわからない。

「いい?」

その一言に、
ほんの少しだけ迷う。

でも、
答えは決まっていた。

「うん」

それだけで、十分だった。

そこから先は、
流れるみたいに進んだ。

触れることに、
理由はいらなかった。

体が、
それを求めているのがわかる。

触れられるたびに、
少しずつ深くなる感覚。

背徳と緊張は、
快感の種類をさらに
刺激に変えていた。

止めるタイミングは、
いくらでもあったはずなのに。

選ばなかった。

終わったあと、
しばらく何も言えなかった。

ただ、
静かな空間の中で、
呼吸だけが少し早い。

その状態が、
現実だと認識するのに
少し時間がかかった。

「…大丈夫?」

また同じ言葉。

でも、
その意味はもう違っていた。

「うん」

そう答えながら、
どこかで思う。

もう、戻れない。

でも、その実感は、思ったより軽かった。

それよりも、
残っている感覚のほうが強い。
触れられた場所の記憶。

体が、それを覚えている。
それが、少しだけ怖かった。

そして同時に。

次を考えている自分がいた。

それからの日常は、
変わらないようで、
確実に変わっていた。

夫と話していても、
どこか遠い。
子どもと過ごしていても、
ふとした瞬間に思い出す。

あの時間、あの感触。

体が覚えてしまったものは、
簡単には消えない。

「今日、会える?」

そのメッセージに、
もう迷いはなかった。

「少しだけ」

その言葉を打ちながら、
自分でもわかっている。

それが“少し”で終わらないことを。

会うたびに、深くなる。
関係も、感覚も。

最初に感じていた罪悪感は、
少しずつ形を変えていた。

消えたわけじゃない。
ただ、後ろに押しやられている。

それよりも前にあるのは、
欲求だった。

触れたい。
触れられたい。

その感覚が、思っていたよりも強い。

ある日、
帰り道にふと思う。

これは、何なんだろう。
ただの関係。

それで済ませるには、
少しだけ重い。

でも、名前をつけるのも
違う気がした。

考えても、
答えは出ない。

ただ一つわかるのは。

やめる理由が、もう弱いということ。

「やめたほうがいいよね」

小さく呟いてみる。

でも、
その言葉には力がなかった。

本気でやめたいと
思っていないのが、
自分でもわかる。

「でも」

その先が続かない。

言い訳も、正当化も、
もう必要なかった。

ただ、続いている。
それだけが現実だった。

夜、隣で眠る夫の
寝息を聞きながら、
スマホを見る。

彼とのやり取りが残っている。

その画面を見ていると、
少しだけ現実が揺れる。

どちらが本当なのか、
わからなくなる。

でも。

指は、自然と動く。

「次、いつにする?」

送ったあと、
少しだけ目を閉じる。

わかっている。

これは、
後悔する可能性がある。

でも。

同時に、
こうも思っている。

止められない。


止め方が、わからない。






おわりーーーーーーー

それからは、
言葉よりも先に体が反応することが増えた。

彼からのメッセージを見るだけで、
少しだけ呼吸が変わる。

「今日、会えますか」

その一文に、
迷いはもうほとんどなかった。

「少しだけなら」

その言葉の意味が、
前とは違っていることに気づいていた。

それでも、
止めなかった。

会うたびに、
距離は少しずつ縮まっていく。

ある日、
いつもより静かな場所を選んだと言われた。

理由は聞かなかった。

聞かなくても、
なんとなくわかっていたから。

向かい合って座る距離が、近い。

会話はしているのに、
どこか上の空になる。

視線が合うたびに、
言葉が途切れる。

「…触れてもいいですか」

その一言に、
時間が少しだけ止まる。

拒む理由は、
いくらでもあるはずだった。

でも、
口から出たのは違う言葉だった。

「少しだけ」

自分でも、
どこか他人みたいな声だった。

彼の手が、
ゆっくりと腕に触れる。

前とは違う、
確かめるような触れ方。

逃げることはできた。
でも、しなかった。

それどころか、
自分から少しだけ近づく。

触れられる側から、
触れる側へ。

その一歩が、
思っていたより簡単だった。
体温が伝わる。

その距離に、
少しだけ息が乱れる。

怖さがないわけじゃない。
でも、
それ以上に。

心地よさがあった。

「…大丈夫?」

もう一度聞かれる。

「うん」

短く答える。

その声が、
少しだけ震えていることに気づいた。

でも、
それを止めようとは思わなかった。

触れている時間が、
少しずつ長くなる。

そのたびに、
境界が曖昧になっていく。

どこまでが大丈夫で、
どこからが駄目なのか。

考えるのを、
やめていた。


最終回へつづく。

次に会ったとき、
その“続き”は思っていたより
簡単に訪れた。

店を出たあと、
少しだけ歩く。

「寒いですね」

そう言いながら、
彼がふと近づく。

次の瞬間、軽く手が触れた。

今度は、はっきりと。

避けることも
できたはずなのに、
しなかった。

むしろ、
そのまま少しだけ指を動かす。

触れていることを、
確かめるみたいに。

「…大丈夫ですか」

小さく聞かれる。

その意味は、
もう十分すぎるほどわかっていた。

「少しだけ」

そう答えた声が、
自分でも驚くほど静かだった。

それ以上の言葉はなかった。

ただ、そのまま少し歩いた。
繋ぐほどじゃない。

でも、離れるほどでもない距離。
その曖昧さが、
逆に強く感じられた。

帰ったあと、
指先の感触が消えなかった。

何度も思い出してしまう。
触れただけ。
それだけなのに。

体のどこかが、
少しだけ落ち着かない。

夫が隣にいるのに、
全く別のことを考えている自分がいた。

その違和感を、
もう否定しきれなかった。

やめるべきだと思う
気持ちは、確かにある。

でも、それ以上に。

続きが気になってしまう。

その感覚のほうが、
少しだけ強かった。
 

 

第8回につづく。