最終回 それでも

 

朝、私は夫に向き合った。


「話があるの」
 

夫の手が止まる。

私の声がこれまでと違うことを、すぐに悟ったのだろう。
息を整え、私は言った。
 

「好きな人がいるの」
 

その瞬間、夫の顔から血の気が引いた。
 

「……誰だ?」
 

「会社の人。もう嘘はつけない」
 

夫はテーブルをつかみ、震えながら言葉をしぼり出した。
 

「ふざけるな……俺たちは……家族だろ」
 

私も涙が溢れた。家族を裏切ったのは事実だから。
でも、もう後戻りできなかった。
 

長い沈黙の末、夫は疲れた声で言った。
 

「出ていくのか」
 

「……うん」
私の答えに、夫は顔を覆って泣いた。

その姿が胸を裂いたが、それでも私は決めた。
 

家を出て、荷物を持ったまま外に立ったとき、スマホが震えた。
 

《話し合った。俺も……離婚する》
《会える?》
 

夕暮れの公園で、安藤は私を見つけると、何も言わず抱きしめた。
 

「あの家を出たんだね……」
 

「うん。でも怖い。これからどうなるか、わからなくて」
 

彼は私の手を取り、指を絡めた。
 

「大変になるよ。いろいろ失う。でも……それでも、一緒にいたい」
 

その言葉は、嘘のない未来を照らしていた。
私は深く息を吸い、彼の胸にそっと頭を預けた。
 

痛みと不安と、それでも消えない温もり。
二人はゆっくりと歩き出した。
愛が許されない形だったとしても、
 

私は初めて“自分の人生”を選んだのだと思った。

 

終わり

第9回 最後の夜

 

そしてついに、安藤から重いメッセージが届いた。
 

《もう限界だ。しばらく会えない》
 

膝から力が抜け、床に崩れ落ちた。言葉にならない声が喉の奥で震えた。
私は自分の心が、彼にどれだけ依存していたのかを思い知った。
 

それでも、どうしても会いたかった。
無理を言って時間を作ってもらい、二人は夜のホテルで再会した。
抱きしめられた瞬間、涙が溢れた。
 

「会えないと思ったら、息ができなかった……」
 

「俺もだよ」
 

 安藤の声は震えていた。
しばらく抱き合ったまま、互いの家族のことを語った。
 

「妻とは……もうダメかもしれない。会話どころか、目も合わせられない」
 

「私も……夫の前だと嘘ばかり。息苦しい」
 

その告白は、決壊の前触れだった。
安藤は深く息を吸い、私の肩を掴んだ。
 

「俺、離婚するかもしれない。というか……そうしないと、自分が壊れる」
 

その言葉に、胸が大きく揺れた。
嬉しさでも、不安でもなく、ただ運命の軋む音がした。
 

家に帰ると、息子は無邪気に眠っていた。
その寝顔を見ながら、私は静かに涙を流した。
 

この子の母親として、どう生きるべきか。
女として、どう生きたいのか。
 

その問いの答えは、もう決まっている気がした。
私は、嘘ではなく本当の気持ちを選ぶ。
 

その覚悟が、胸の奥で静かに形を成し始めていた。

 

 

最終回につづく。

第8回 軋み

 

数日後、夫の視線は疑念を帯び始めた。


「最近、残業多いな。会社、そんなに忙しいのか?」
 

問いかけは何気ないようで、ひどく重かった。
 

「……まあ、ね」
 

声が上ずる。
 

一方、安藤の家庭も崩れ始めていた。
 

「妻が……俺の予定を細かく聞くようになった。会話が噛み合わないどころか、探られている感じだ」
 

電話越しに聞く彼の声は疲れ切っていた。
私は胸が締め付けられた。自分が彼を追い詰めているのだろうか。
 

そして約束の日、彼は来られなかった。
 

《ごめん、今日は無理だ》
 短いメッセージだけが届いた。
 

私はソファに座り込み、スマホを握りしめたまま動けなくなった。
彼に会えないだけで、こんなにも胸が空っぽになるなんて思わなかった。
 

夫と息子がいる家の中で、私は完全に孤独だった。
翌日、彼と会うと互いに抱きしめ合うように近づいた。
 

「会えないと……壊れそうだった」
 

 私が呟くと、彼は強く抱きしめてくれた。
 

「逃げたいな……全部から」
 

その言葉がこぼれたとき、もう“普通の家庭”に戻る選択肢は消えていた。
私は彼の胸に顔を埋めながら、静かに決意の輪郭を感じ始めていた。
 

この道を進めば、必ず傷つく。でも――もう戻れない。
 

それだけは、確かだった。

 

 

第9回につづく。