逃げ道?と生死 | 〜Haereticus〜bc.motoki_life

逃げ道?と生死

「逃げ道」とは


◆その一◆


怒る時、叱る時に必要なものに、「逃げ道」があるかもしれません。

まあ、怒る時に、いちいち逃げ道のことなんて考えないわけですが、
逃げ道がないのは怖いかもしれませんね。



逃げ道がない怒り方をしたら、怒られる方は、
そりゃもう、自分が死んでしまうか、相手を殺してしまうか――そうするしかなくなるかもしれません。

別に、実際に死んだり殺したりしなくても、
内的には、死んだり殺したりするかもしれません。

なんせ、逃げ道がないですから。
それだけ追い込まれてしまうわけです。



でも、最近、そういう救いのないケースが多いような気もします。

容赦ないほど、一斉に攻撃されたり、
容赦ないほど、一斉に攻撃したり、

あっちと、こっちが、一緒に攻め立てたり、

逃げ道そのものがなかったり、逃げ道を作ってくれる人がいなかったり、
そういう傾向があるように思います。


なんか救いがないですね。
(他人(ひと)の事いえませんが――反省)



(誰かがポカンと頭を叩くのはいいかもしれませんが、みんなして叩いてたら大変ですわな。頭が変形したり、過ぎると死んでしまいそうです――まあ、実際に叩くわけじゃないにしても)



まあ、一つには、「怒る役割」の人が不在で、
誰も怒らないから、みんな溜まりに溜まってるんですかね。
いろんなものが。

誰も、「ガツンッ!!」とやらないから、一斉に、「わ~!!」と、力が集中したりするんでしょうか。


人間に内在する、そういう力が、あまり使われていないので、
何か機会があった折には、「わ~!!」と集中して、使われるのかもしれません。

噴火しきれない溶岩が普段から溜まっていて、
行き場を探しているのかもしれませんね。

「きっかけ」を待っているところがあるのかもしれません。


――ということは、
普段から、噴火すべき時には、噴火しておいた方がいいような気もします。

小噴火なら被害は少ないかもしれないけど、
大噴火なら大変なことになってしまいます。

取り返しのつかないような噴火は、やっぱり避けたいですもんね。


でも、まあ、噴火そのものが悪いわけではなくて、
むしろ、人間としては必要で、
ただ、噴火の仕方は考えないといかんようですが…

逆に、噴火そのものを否定してしまうと、人間としての活力が失われてしまうし、
後の大噴火を招きかねません。

火口に蓋をしたら、どっかから爆発しそうですもんね。
あるいは、暴発・大爆発かな。

蓋をしたところで、火山内部の活動が収まったわけではないですから。
(まあ、それを見ないようにしているだけでしょう。当たり前に、あるものはあるし、ないものはないです。蓋があろうと、なかろうと、ですね)

「自然」というものを考えても、噴火するのは、どちらかというと「自然(自然な出来事)」で、
噴火を無理に抑えるのは、「不自然」なのかもしれません。



話を戻すと、
逃げ道のない噴火は危うい、という事でしょうか。

その為にも、普段から――あるいは小さい頃から――
(適度な)噴火の仕方を経験しておくのも、いいかもしれません。

(救いのない噴火は怖いですから――と言いつつ、噴火なんて、なかなかコントロールできないですけど)

別に、噴火をせかすことはないですが、(小さい)噴火が起こりそうな時には、
それと付き合うことにも意味がありそうです。

(まあ、我が子とか、身近な人には、ですね)



はじめ、「怒る」・「叱る」というところから始まって、
「噴火」の話になりましたが、
噴火とは、まあ、感情の爆発みたいなもんでしょうか。

で、怒るや叱るにしろ、感情の爆発にしろ、
逃げ道がないのは、救いがないかもしれませんね。

(ただ、怒るや叱る、感情の爆発、そのものは必要だと思いますが)

(限度を超える怒り方は勘弁して欲しいです)


◆その二◆


「逃げ道」がないのは、恐ろしいです。救いがないかもしれません。


家というものを考えても、そうでしょうか。

逃げ道がないと、それこそ家を出るか、自分を殺してしまうか、相手を殺してしまうか、
――そういう思考になってしまうかもしれません。

実際に行動するかどうかは別にしても、です。

まあ、別に家に限らなくても、どんな集団でも、そうでしょうかね。

「逃げ道」や「息抜きの場」がないのは、怖いです。
危ういですよ。

どうしても、追い詰められてしまうし、心休まらないです。
安らぎがない。

そいでもって、追い込まれると、何をするか分からない。
どうなるか分からない。

自分も、相手も、ですね。



救いのない怒り方、
救いのない状況、
救いのない○○、


そういう意味で、「救い」=「逃げ道」くらいあってもよさそうなもんですね。
(まあ、赦される範囲で)


でも、「追い詰められてこそ変われる」ってこともあるわけで、
この辺は難しいでしょうか。


救いのない状況に陥ることで、救いが見える――ってこともあるかもしれません。
(暗闇でこそ、かすかな光が見えるように)

今まで見えなかったものが見えたり、
やっと方向転換できたり、
やっと決意できたり、
――そういう事は、あるかもしれませんね。

でも、ギリギリだから難しいです。
ギリギリだから、危ういですね。
そういう場面の転換って、ギリギリだったりします、往々にして。



でも、まあ、常時、「救いがない」=「逃げ道がない」、
ってのは勘弁して欲しいもんです。


上でも書きましたが、最近、救いのない事件が多すぎるような気がします。
「救いがない」の一面として、「逃げ道がない(なかった)」というのは、あるかもしれませんね。


罪は罪で消えないし、
特に、犯罪に関するような事に対しては、断固たる態度を執らなければならないのですが、
それとは別に、「逃げ道」ということを考えると、また、考えさせられるものがあるかもしれません。

(重ねて言いますが、罪は罪で消えないし、それで犯罪が赦されるもんでもないですが…)


犯罪のようなものに関していえば、
そのような時の「逃げ道」は、反省の伴なった逃げ道がいいですね。

反省のない、逃避の逃げ道なんて、やめて欲しいです。




一面的になると、救いがなくなったり、逃げ道がなくなったりするのかもしれません。

「アカン!!」ばっかりじゃ、逃げ道がなくて、救いがない。
そして、「まあエエやないの」ばかりでも、成り立たないでしょう。

悪い態度を修正する、そんな道を塞いでしまうかもしれません。
悪い態度の奥にある、メッセージを伝える道を塞いでしまうかもしれません。


一面的だと、方向転換しにくいです。
逃げ道がないです。

危ういですね。
(「アカン」、「まあエエやないの」)どちらにせよ。



何にせよ、逃げ道がないのは、救いがないかもしれませんね。
追い詰められてしまいます。

で、そういうことを避けるのにも、
「二面性」や「相反するもののペア」が助けてくれるんでしょう。

何かに追い詰められたり、
自分で追い詰めたり、

そういう中で、二面性という矛盾が、逃げ道を用意してくれるのかもしれません。

あるいは、自分の否定しているもの(「影」)の中に、
逃げ道や、打開策が、あるのかもしれません。


そういう意味で、一見、価値が低いと思われるようなものの中にも、
「意外といいところ」があるのかもしれませんね。

(こういうところから、「投影の引き戻し」が始まったりします)



逃げ道にしても、いい逃げ道と、そうでない逃げ道、
良い未来につながるものと、そうでないものとがあるでしょうから、

できれば、良い(逃げ)道を歩みたいものです。


◆その三◆


逃げ道がないと、救いがありません。
救いがないと、やりきれなくなるかもしれません。



人生は厳しいです。

厳しいばかりじゃないものの、
その一面は、やっぱり厳しいです。

また、厳しさは必要です。
厳しさが人を育てる一面もあります。

でも、やっぱり、
厳しさばかりじゃ、辛いかもしれません。

救いがないかもしれません。

(ここでも、矛盾する「二面性」があります)



西洋的な厳しさは、ハンパないです。

そりゃもう、容赦ないです。

失敗しようが、なんだろうが、
自業自得が基本でしょう。

夢も大きいですが、その反対も容赦ないです。
そりゃ、もう、怖いくらいです。

で、そういうものの救いとして、聖母マリアに象徴される、
「大いなる赦し(ゆるし)」「無償の赦し」があるのかもしれません。

厳しい判断を下す、父性的な絶対神の補償作用として、
聖母マリアの無償の赦しがあるのかもしれません。



父性の神は言います、

罪は罪である、
したことは消えない、
事実は事実として残る、
罪は裁かれねばならない、


母性としての聖母マリアは言います、

何があっても赦します、
何があっても、あなたは私の子なのです、
いつでも帰ってきなさい、
いつまでも祈っています、



どちらがいい、というのでもありません。
どちらかがいい、というものでもないでしょう。

どちらも必要で、
両者が両者を補うのでしょう。


それは表であり、裏であり、
陰であり、陽であり、

厳しさであり、赦しであり、


そういうところに、希望と救いがあるんだと思います。



片方では足りず、
また、片方は片方として必要で、

互いに補っていく事が大切なんでしょうね。


ここに、ユング心理学の奥義、
相反するものの補償作用があるように思います。


そして、身近にありながら、案外見逃しているようなところにも、
希望や救いがあるのでしょう。


【追記】

聖母マリアの愛には、

何があっても愛し続けるという、
――そういう強さがあるのだと思います。

胸に何本もの剣を刺されようと祈り続けるという、
――そういう強さがあるのだと思います。

故に、人智を超えた、深みがあるのだと思います。

父性の神とはまた違った、強さがそこにあります。
(また、それは人の域を超えています)




これは人の言葉ですが、痛感します。
ニュースも実は身近に、起こりうる現実なのかもしれませんね。



iPhoneからの投稿