ジュン・アシダ
【日本経済新聞】
皇后さまが
皇太子妃だった
当時に
専任デザイナーを務め
日本のプレタポルテの草分けとされる
ファッションデザイナーの
芦田淳さんが
10月20日、自宅で死去。
88歳
日本を代表する
ファッションデザイナーで、
皇后さまの皇太子妃時代の
専任デザイナーも務めた
芦田淳さんが
肺炎のため、
東京都内の自宅で亡くなった。
喪主は妻、友子さん。
後日、お別れの会を開く。
【読売新聞10.23】
1930年、
朝鮮半島の全羅北道生まれ。
戦後間もなく
人気画家で雑誌
「それいゆ」を創刊した
中原淳一さんに師事し、服飾を学んだ
60年に
高島屋の顧問デザイナーに就任し
63年に
現在の「ジュン・アシダ」を設立。
66年から10年間、
皇后さまが
皇太子妃時代に
専任デザイナーを務めた。
日本のプレタポルテを先導し
全日本空輸の制服なども手掛けた。
96年の
アトランタ五輪で
日本選手団の公式ユニホームの
デザインも担当した。
2006年に
旭日中綬章を受章。
10年にフランスの
芸術文化勲章オフィシエを受章した
13年秋に
会社創立50周年を記念した
ショーを行い、社長職を退いた。
約1年前から
体調を崩し、自宅で療養していた。
次女の
芦田多恵さんもデザイナーとして
活躍している。
「女性美しく」半世紀
芦田さん 服作りへ 情熱 晩年も
「夜中に目が覚めて
アイデアを思い付き、
デザインを描いた紙を握りしめて
朝出勤することもある」と話し
晩年も情熱的に服作りに
取り組んでいた。
8人きょうだいの末っ子。
長兄一家が赴任先の
米国から持ち帰った
雑誌や美しい服の影響で、
ファッションに興味を持った。
高校生の頃、
憧れだった画家、
中原淳一さんの元に
デザイン画を携えて押しかけ、
後に弟子となった。
1953年に、
アパレル会社に就職、
デザイナーになった。
「生活の中で
服がどう生き、
その人の幸せに役立つかという
視点で服作りをしている」との
言葉通り、
手掛けた服に派手さや奇抜さは
ないが、時を経ても変わらない
美しさがあった。
服は、
皇族や首相夫人、
各国大使夫人、
女優など多くの女性に愛され、
顧客たちは、
「どんな場面でも
安心して着ることができる」と
信頼を寄せた。
近年、
公の場に姿を見せる機会は
減ったが、2014年12月には、
東京都内で60年以上に及ぶ
創作活動を振り返る展覧会を開き、
新作も発表していた。
「服でエレガンスを表現し
女性たちを美しくしたい」。
そんな信念を通した人生だった。
国内外の服飾史に詳しい
エッセイストの
中野香織さんは
「戦後の日本に
プレタポルテの
概念を持ち込んだ
草分け的存在。
常に時代の感覚を反映しながら
決してエレガンスと
品格を失わなかった。
芦田さんの服を着れば、
国際的にどんな舞台にたっても
日本の品格を表現できた」と
振り返った。
親交のあった
女優の佐久間良子さんは
「30代から
映画やテレビの衣装のほか、
プライベートでも、
先生の洋服をたくさん着させて
いただいた。
仕事ぶりにお人柄がにじんで、
仕立てが実に丁寧で細やか。
センスの良さが感じられ
何度着ても着崩れしない
抜群の洋服だった。
食事にもよく
誘っていただき、穏やかな
お話ぶりが
忘れられない。
惜しい人を亡くし、
残念でならない」と話した。
自宅に
弔問に訪れた
俳優の西岡徳馬さんは
「一時代を築いて
素晴らしい一生だったと思う」と
悼んだ。
【日本経済新聞】
皇后さまが
皇太子妃だった
当時に
専任デザイナーを務め
日本のプレタポルテの草分けとされる
ファッションデザイナーの
芦田淳さんが
10月20日、自宅で死去。
88歳
日本を代表する
ファッションデザイナーで、
皇后さまの皇太子妃時代の
専任デザイナーも務めた
芦田淳さんが
肺炎のため、
東京都内の自宅で亡くなった。
喪主は妻、友子さん。
後日、お別れの会を開く。
【読売新聞10.23】
1930年、
朝鮮半島の全羅北道生まれ。
戦後間もなく
人気画家で雑誌
「それいゆ」を創刊した
中原淳一さんに師事し、服飾を学んだ
60年に
高島屋の顧問デザイナーに就任し
63年に
現在の「ジュン・アシダ」を設立。
66年から10年間、
皇后さまが
皇太子妃時代に
専任デザイナーを務めた。
日本のプレタポルテを先導し
全日本空輸の制服なども手掛けた。
96年の
アトランタ五輪で
日本選手団の公式ユニホームの
デザインも担当した。
2006年に
旭日中綬章を受章。
10年にフランスの
芸術文化勲章オフィシエを受章した
13年秋に
会社創立50周年を記念した
ショーを行い、社長職を退いた。
約1年前から
体調を崩し、自宅で療養していた。
次女の
芦田多恵さんもデザイナーとして
活躍している。
「女性美しく」半世紀
芦田さん 服作りへ 情熱 晩年も
「夜中に目が覚めて
アイデアを思い付き、
デザインを描いた紙を握りしめて
朝出勤することもある」と話し
晩年も情熱的に服作りに
取り組んでいた。
8人きょうだいの末っ子。
長兄一家が赴任先の
米国から持ち帰った
雑誌や美しい服の影響で、
ファッションに興味を持った。
高校生の頃、
憧れだった画家、
中原淳一さんの元に
デザイン画を携えて押しかけ、
後に弟子となった。
1953年に、
アパレル会社に就職、
デザイナーになった。
「生活の中で
服がどう生き、
その人の幸せに役立つかという
視点で服作りをしている」との
言葉通り、
手掛けた服に派手さや奇抜さは
ないが、時を経ても変わらない
美しさがあった。
服は、
皇族や首相夫人、
各国大使夫人、
女優など多くの女性に愛され、
顧客たちは、
「どんな場面でも
安心して着ることができる」と
信頼を寄せた。
近年、
公の場に姿を見せる機会は
減ったが、2014年12月には、
東京都内で60年以上に及ぶ
創作活動を振り返る展覧会を開き、
新作も発表していた。
「服でエレガンスを表現し
女性たちを美しくしたい」。
そんな信念を通した人生だった。
国内外の服飾史に詳しい
エッセイストの
中野香織さんは
「戦後の日本に
プレタポルテの
概念を持ち込んだ
草分け的存在。
常に時代の感覚を反映しながら
決してエレガンスと
品格を失わなかった。
芦田さんの服を着れば、
国際的にどんな舞台にたっても
日本の品格を表現できた」と
振り返った。
親交のあった
女優の佐久間良子さんは
「30代から
映画やテレビの衣装のほか、
プライベートでも、
先生の洋服をたくさん着させて
いただいた。
仕事ぶりにお人柄がにじんで、
仕立てが実に丁寧で細やか。
センスの良さが感じられ
何度着ても着崩れしない
抜群の洋服だった。
食事にもよく
誘っていただき、穏やかな
お話ぶりが
忘れられない。
惜しい人を亡くし、
残念でならない」と話した。
自宅に
弔問に訪れた
俳優の西岡徳馬さんは
「一時代を築いて
素晴らしい一生だったと思う」と
悼んだ。