空にB29 防空壕へ
疎開の日々 今も胸に
【読売 / 平成の天皇 戦争と平和①】
天皇陛下が先の大戦中、
疎開生活を送られた
旧日光田母沢御用邸
(栃木県日光市、現記念公園)にある
皇室用防空壕が先月、
読売新聞に特別に公開された。
県が非公開としている
内部に足を踏み入れると、
深い闇と静寂に包まれていた。
戦後73年になっても、
堅固なコンクリートの天井は
ひび一つない。
一方、爆風を防ぐための
厚さ22㌢、10㌢の二つの
鉄扉はさびつき、
開いたままびくともしなかった。
「陛下が庭で
雪遊びをしていると、
B29爆撃機が上空を飛び、
大急ぎで防空壕に避難した」。
御用邸の防空壕を巡っては、
黒木従達・東宮傅育官が
そんな証言を残している。
この時は約70㍍離れた
別の壕に逃げたが、
即位後、
御用邸を訪れた陛下は
「防空壕に何回か入った」と
明かされたという。
陛下は
学習院初等科5年生の
1944年7月から
6年生の翌年11月まで、
日光に疎開された
疎開生活はまず、
44年5月、
同級生とともに向かった
静岡県の沼津で始まった。
だが
7月に要衝・サイパンが陥落、
本土がB29の射程に入り、
内陸の日光に向かわれた。
日光では、
先生や宮内省の職員らに見守られ
勉強のほか、
上半身裸で体操したり、
相撲を取ったりして過ごされた。
「僕らは案外
のびのびしていた」と
同級生たちは語る。
ただ、
その一人、
栄木和男さん(84)は、
教室のあった
東京帝大付属植物園で
機関銃の射撃を見学し、
「戦争」を感じた。
「ものすごい地響きで
実際の威力に驚いた。
陛下もその場にいらっしゃった」
45年3月、
東京大空襲で10万人が犠牲に。
お住まいの東宮仮御所も
5月の空襲で焼失した。
陛下は7月、
「夏期鍛練」の名目で
さらに約30㌔入った奥日光に移られた
宿舎はホテルで食糧事情も悪化、
同級生と一緒に戦場ヶ原で、
野草や
木の実を摘まれた。
終戦2日前の朝、
山道を移動中、突然、
爆音とともに
米軍機が低空で飛んできた。
「先生の指示で地面に伏せた。
陛下は
先生に連れられて走って避難された」。
真田尚裕さん(85)は
あの光景が忘れられない。
8月15日、
陛下は父 昭和天皇が
終戦を告げる玉音放送を
ホテルで聞かれた。
穗積重遠・東宮大夫は
「陛下にも深く
御感銘の御様子なりし」と日記に残した
11月7日、
陛下は同級生らとともに
特別列車で帰京された。
「焼け野原に
トタンの家の建つ東京に戻って
みた状況は、現在の東京からは
とても考えられないものでした」。
陛下は93年、
還暦を控えた記者会見でそう振り返られた
陛下は
自身の戦争体験を語る時、
この光景に言及される。
「焦土のにおいがして
敗戦を肌で感じた」と同級生の
明石元紹さん(84)が説明する。
先の大戦における
学童疎開は、
44年3月に親類を頼る縁故疎開、
6月に集団疎開の促進が
それぞれ決定。
40万人以上が移住した。
陛下はその一人として戦禍を
逃れられた。
だが、沖縄から
長崎に向かった学童疎開船・
対馬丸は44年8月、
米軍の魚雷で沈没した。
学童784人を含む
計1482人が犠牲になった。
悲しみが詰まった船体は
長く行方知れずだったが、
97年、鹿児島県の悪石島付近で
見つかった。
《疎開児の命いだきて
沈みたる
船深海に
見出だされけり》
陛下はこの年、
対馬丸の発見を歌に詠まれた。
さらに
2014年、
皇后さまとともに
那覇市で対馬丸犠牲者の慰霊碑に
供花された。
この時、
生存者として面会した
沖縄県うるま市の上原清さん(84)は
「同じ疎開児だからこそ、
我が事のように私たちの
無念を受け止めてくれた」と話す
陛下は昨年11月、
皇后さまとともに
鹿児島県の離島を巡られた。
機内から
悪石島の海域を
一目見ようと、厚い曇の先に
じっと目を凝らされたのだった。
*
天皇陛下は15日、
在位中最後の
全国戦没者追悼式に出席される。
徹底して先の大戦の悲しみに
寄り添い、
平和の希求に尽くされた
陛下の信念の原点を
幼少時代からたどっていく。
疎開の日々 今も胸に
【読売 / 平成の天皇 戦争と平和①】
天皇陛下が先の大戦中、
疎開生活を送られた
旧日光田母沢御用邸
(栃木県日光市、現記念公園)にある
皇室用防空壕が先月、
読売新聞に特別に公開された。
県が非公開としている
内部に足を踏み入れると、
深い闇と静寂に包まれていた。
戦後73年になっても、
堅固なコンクリートの天井は
ひび一つない。
一方、爆風を防ぐための
厚さ22㌢、10㌢の二つの
鉄扉はさびつき、
開いたままびくともしなかった。
「陛下が庭で
雪遊びをしていると、
B29爆撃機が上空を飛び、
大急ぎで防空壕に避難した」。
御用邸の防空壕を巡っては、
黒木従達・東宮傅育官が
そんな証言を残している。
この時は約70㍍離れた
別の壕に逃げたが、
即位後、
御用邸を訪れた陛下は
「防空壕に何回か入った」と
明かされたという。
陛下は
学習院初等科5年生の
1944年7月から
6年生の翌年11月まで、
日光に疎開された
疎開生活はまず、
44年5月、
同級生とともに向かった
静岡県の沼津で始まった。
だが
7月に要衝・サイパンが陥落、
本土がB29の射程に入り、
内陸の日光に向かわれた。
日光では、
先生や宮内省の職員らに見守られ
勉強のほか、
上半身裸で体操したり、
相撲を取ったりして過ごされた。
「僕らは案外
のびのびしていた」と
同級生たちは語る。
ただ、
その一人、
栄木和男さん(84)は、
教室のあった
東京帝大付属植物園で
機関銃の射撃を見学し、
「戦争」を感じた。
「ものすごい地響きで
実際の威力に驚いた。
陛下もその場にいらっしゃった」
45年3月、
東京大空襲で10万人が犠牲に。
お住まいの東宮仮御所も
5月の空襲で焼失した。
陛下は7月、
「夏期鍛練」の名目で
さらに約30㌔入った奥日光に移られた
宿舎はホテルで食糧事情も悪化、
同級生と一緒に戦場ヶ原で、
野草や
木の実を摘まれた。
終戦2日前の朝、
山道を移動中、突然、
爆音とともに
米軍機が低空で飛んできた。
「先生の指示で地面に伏せた。
陛下は
先生に連れられて走って避難された」。
真田尚裕さん(85)は
あの光景が忘れられない。
8月15日、
陛下は父 昭和天皇が
終戦を告げる玉音放送を
ホテルで聞かれた。
穗積重遠・東宮大夫は
「陛下にも深く
御感銘の御様子なりし」と日記に残した
11月7日、
陛下は同級生らとともに
特別列車で帰京された。
「焼け野原に
トタンの家の建つ東京に戻って
みた状況は、現在の東京からは
とても考えられないものでした」。
陛下は93年、
還暦を控えた記者会見でそう振り返られた
陛下は
自身の戦争体験を語る時、
この光景に言及される。
「焦土のにおいがして
敗戦を肌で感じた」と同級生の
明石元紹さん(84)が説明する。
先の大戦における
学童疎開は、
44年3月に親類を頼る縁故疎開、
6月に集団疎開の促進が
それぞれ決定。
40万人以上が移住した。
陛下はその一人として戦禍を
逃れられた。
だが、沖縄から
長崎に向かった学童疎開船・
対馬丸は44年8月、
米軍の魚雷で沈没した。
学童784人を含む
計1482人が犠牲になった。
悲しみが詰まった船体は
長く行方知れずだったが、
97年、鹿児島県の悪石島付近で
見つかった。
《疎開児の命いだきて
沈みたる
船深海に
見出だされけり》
陛下はこの年、
対馬丸の発見を歌に詠まれた。
さらに
2014年、
皇后さまとともに
那覇市で対馬丸犠牲者の慰霊碑に
供花された。
この時、
生存者として面会した
沖縄県うるま市の上原清さん(84)は
「同じ疎開児だからこそ、
我が事のように私たちの
無念を受け止めてくれた」と話す
陛下は昨年11月、
皇后さまとともに
鹿児島県の離島を巡られた。
機内から
悪石島の海域を
一目見ようと、厚い曇の先に
じっと目を凝らされたのだった。
*
天皇陛下は15日、
在位中最後の
全国戦没者追悼式に出席される。
徹底して先の大戦の悲しみに
寄り添い、
平和の希求に尽くされた
陛下の信念の原点を
幼少時代からたどっていく。