平成の天皇 沖縄へ
命がけの初訪問 〔上〕
【読売新聞3.22】
天皇、皇后両陛下が27日から3日間
沖縄県を訪問される。
退位を前に11回目の旅を望んだ
沖縄に込められた思いをたどる。
側近によると、
最西端の与那国島で自然放牧の馬を
見学するのを楽しみにされていると
いう。最初の訪問は命懸けだった。
皇太子夫妻時代の1975年夏。
糸満市内でテロに狙われた。
皇宮警察護衛2課長だった
杉山説男さん(76)はその場にいた。
この数ヶ月前、
当時の側近に
『衣の下から鎧が見える
訪問にはしないというご決意だ』と
他県への訪問時よりも
薄い警備にしてほしいと要請されていた
本土復帰間もない沖縄には
反皇室の動きがあった。
『最低でも
火炎瓶は飛ぶ。
銃器使用の情報もある』と反対した
3時間の激論の末、
側近は涙ながらに訴えた。
『戦後30年間果たせずにいる
陛下(昭和天皇)に代わって
沖縄入りされるのだ。
なぜ
わかってくれないのか』
杉山さんは条件を出した。
『燃え上がる化学繊維の服は
避けていただきたい』
眼前に炎 覚悟の慰霊
1975年7月17日、
初めて沖縄入りした
天皇、皇后両陛下は、
沖縄戦で犠牲になった
女子生徒をまつる『ひめゆりの搭』
(糸満市)に向かわれた。
拝礼を終え、同窓会長の説明を
受けられていた午後1時半頃。
皇宮警察護衛2課長だった
杉山さんが恐れていた事態が起きた
両陛下に向かって火炎瓶が飛んできた
弧を描く瓶の中であめ色の液体が
揺れていた。2㍍先の祭壇に当たり
炎が上がった。
両陛下の背中を抱えて退避したが
10㍍ほど進むと天皇陛下が
『同窓会の方々の安否が
確認されるまでここを動きません』
とその場に踏みとどまられた。
全員無事とわかり、
第2波に備えて乗った車からも、
すぐに降りられた。
『後ほど
改めてお話を聞かせてください』と
同窓会員らに伝えられるためだった
『すごい覚悟だ』。
杉山さんはその決意に圧倒された
炎はまだ上っていた。
両陛下を沖縄に迎えた
屋良朝苗知事(1997年死去)は、
事件後も予定通りに慰霊搭を巡り
遺族に丁寧に語りかけられる
両陛下の姿に接した。
『真実一路そのもの
頭が下がった』と日誌に
つづっている。
天皇陛下はこの日の夕方、
お言葉を発表された。
住民を巻き込んだ国内唯一の
地上線を経験した沖縄の尊い犠牲に
言及し、一時の行為や言葉によって
あながえるものではない、
という思いを表明された。
両陛下は過去に10回、
沖縄入りすると、必ず最初に
慰霊を向かわれた。
毎年、沖縄戦が終結した
6月23日には、
沖縄の方角を向いて黙祷をささげられる
昨年は皇太子さまも一緒で、
沖縄の郷土料理を囲まれた。
県民はそうした姿をずっと見守ってきた
NHKが沖縄で実施した世論調査によると
『天皇は
尊敬すべき存在』という回答は、
92年は34%だったが、
20年後は51%に上昇した。
県遺族連合会の前会長照屋苗子さん
(82)は当初、日本の象徴である天皇に
対する複雑な感情があった。
沖縄戦で父や祖母ら家族5人を失い
心に深い傷を負ったからだ。
即位後初訪問の93年。
天皇陛下から
『お父様を亡くされたのね。
ご苦労なさいましたね』と声を
かけられた。その後も気遣うお言葉を
もらい、わだかまりが解けていったと
いう。43年前、火炎瓶を投げた
元活動家の男性(67)が今月10日、
那覇市内で取材に応じた。
ひめゆりの搭そばの壕に約1時間前から
潜んでいたが、見つからなかったという
女子生徒らが命を散らした
神聖な場所だったことから
警備当局は事前の捜索を控えたのだった
男性は
『裁判で沖縄の気持ちを示したかった
火炎瓶を当てるつもりはなかった』
と釈明した。だが、
十分に主張できないまま裁判は終わり
77年に実刑が確定した。
『活動は失敗だった』と話した。
両陛下は93年の訪問で、
全国植樹祭に出席された。
かつて艦砲射撃にさらされた
糸満市内の会場で、陛下は
『戦争により焦土と化した
この地域において行われることを
非常に意義深いことと思います』
とあいさつし、皇后さまと
植樹された。会場は5年後、
『平和創造の森公園』と命名され、
市民の憩いの場になった。
ひめゆりの搭そばで土産店を経営する
山城幸次郎さん(74)は、
公園でジョギングしながら、
陛下が植えられた3本の
リュウキュウマツの成長を
見守ってきた。
当初は1㍍に満たなかったが、
四半世紀をへて9㍍近くまで伸びた。
山城さんは、
ひめゆりの搭が騒然となった
あの日の光景を覚えている。
『両陛下が
身を賭して沖縄にまかれた
平和への思いは、
立派に育っている』と実感する。
27日には
両陛下を国立沖縄戦没者墓苑で
待つつもりだ。
命がけの初訪問 〔上〕
【読売新聞3.22】
天皇、皇后両陛下が27日から3日間
沖縄県を訪問される。
退位を前に11回目の旅を望んだ
沖縄に込められた思いをたどる。
側近によると、
最西端の与那国島で自然放牧の馬を
見学するのを楽しみにされていると
いう。最初の訪問は命懸けだった。
皇太子夫妻時代の1975年夏。
糸満市内でテロに狙われた。
皇宮警察護衛2課長だった
杉山説男さん(76)はその場にいた。
この数ヶ月前、
当時の側近に
『衣の下から鎧が見える
訪問にはしないというご決意だ』と
他県への訪問時よりも
薄い警備にしてほしいと要請されていた
本土復帰間もない沖縄には
反皇室の動きがあった。
『最低でも
火炎瓶は飛ぶ。
銃器使用の情報もある』と反対した
3時間の激論の末、
側近は涙ながらに訴えた。
『戦後30年間果たせずにいる
陛下(昭和天皇)に代わって
沖縄入りされるのだ。
なぜ
わかってくれないのか』
杉山さんは条件を出した。
『燃え上がる化学繊維の服は
避けていただきたい』
眼前に炎 覚悟の慰霊
1975年7月17日、
初めて沖縄入りした
天皇、皇后両陛下は、
沖縄戦で犠牲になった
女子生徒をまつる『ひめゆりの搭』
(糸満市)に向かわれた。
拝礼を終え、同窓会長の説明を
受けられていた午後1時半頃。
皇宮警察護衛2課長だった
杉山さんが恐れていた事態が起きた
両陛下に向かって火炎瓶が飛んできた
弧を描く瓶の中であめ色の液体が
揺れていた。2㍍先の祭壇に当たり
炎が上がった。
両陛下の背中を抱えて退避したが
10㍍ほど進むと天皇陛下が
『同窓会の方々の安否が
確認されるまでここを動きません』
とその場に踏みとどまられた。
全員無事とわかり、
第2波に備えて乗った車からも、
すぐに降りられた。
『後ほど
改めてお話を聞かせてください』と
同窓会員らに伝えられるためだった
『すごい覚悟だ』。
杉山さんはその決意に圧倒された
炎はまだ上っていた。
両陛下を沖縄に迎えた
屋良朝苗知事(1997年死去)は、
事件後も予定通りに慰霊搭を巡り
遺族に丁寧に語りかけられる
両陛下の姿に接した。
『真実一路そのもの
頭が下がった』と日誌に
つづっている。
天皇陛下はこの日の夕方、
お言葉を発表された。
住民を巻き込んだ国内唯一の
地上線を経験した沖縄の尊い犠牲に
言及し、一時の行為や言葉によって
あながえるものではない、
という思いを表明された。
両陛下は過去に10回、
沖縄入りすると、必ず最初に
慰霊を向かわれた。
毎年、沖縄戦が終結した
6月23日には、
沖縄の方角を向いて黙祷をささげられる
昨年は皇太子さまも一緒で、
沖縄の郷土料理を囲まれた。
県民はそうした姿をずっと見守ってきた
NHKが沖縄で実施した世論調査によると
『天皇は
尊敬すべき存在』という回答は、
92年は34%だったが、
20年後は51%に上昇した。
県遺族連合会の前会長照屋苗子さん
(82)は当初、日本の象徴である天皇に
対する複雑な感情があった。
沖縄戦で父や祖母ら家族5人を失い
心に深い傷を負ったからだ。
即位後初訪問の93年。
天皇陛下から
『お父様を亡くされたのね。
ご苦労なさいましたね』と声を
かけられた。その後も気遣うお言葉を
もらい、わだかまりが解けていったと
いう。43年前、火炎瓶を投げた
元活動家の男性(67)が今月10日、
那覇市内で取材に応じた。
ひめゆりの搭そばの壕に約1時間前から
潜んでいたが、見つからなかったという
女子生徒らが命を散らした
神聖な場所だったことから
警備当局は事前の捜索を控えたのだった
男性は
『裁判で沖縄の気持ちを示したかった
火炎瓶を当てるつもりはなかった』
と釈明した。だが、
十分に主張できないまま裁判は終わり
77年に実刑が確定した。
『活動は失敗だった』と話した。
両陛下は93年の訪問で、
全国植樹祭に出席された。
かつて艦砲射撃にさらされた
糸満市内の会場で、陛下は
『戦争により焦土と化した
この地域において行われることを
非常に意義深いことと思います』
とあいさつし、皇后さまと
植樹された。会場は5年後、
『平和創造の森公園』と命名され、
市民の憩いの場になった。
ひめゆりの搭そばで土産店を経営する
山城幸次郎さん(74)は、
公園でジョギングしながら、
陛下が植えられた3本の
リュウキュウマツの成長を
見守ってきた。
当初は1㍍に満たなかったが、
四半世紀をへて9㍍近くまで伸びた。
山城さんは、
ひめゆりの搭が騒然となった
あの日の光景を覚えている。
『両陛下が
身を賭して沖縄にまかれた
平和への思いは、
立派に育っている』と実感する。
27日には
両陛下を国立沖縄戦没者墓苑で
待つつもりだ。