四天王


興福寺・南円堂 (奈良市登大路町)


探訪/古き仏たち


作者は誰?覆された「常識」


興福寺は平安時代末の1180年、平氏の南都焼き討ちで全焼し、


多数の仏像を失った。復興には堂ごとに仏師一門の長が指名され、


南円堂の造仏を担ったのは「慶派」の長で運慶の父の康慶だった。


藤原氏の氏長者、九条兼実の日記「玉葉」に書かれており、


南円堂の本尊の不空けん索観音や四天王立像が康慶作であることは


誰も疑わなかった。


常識は1990年、「康慶作四天王は中金堂に移っている」とした


藤岡穣大阪大学教授(東洋美術史)の一編の論文で覆された。


藤岡氏は南円堂の不空けん索観音が忠実に描写された


室町時代の絵画を取り上げ、本尊に付随した四天王が4体とも


現中金堂の四天王に酷似していると指摘、


「現中金堂四天王が本来の南円堂四天王」と結論づけた。


衝撃的な新設だったが、広く支持され定説となった。


では、現・南円堂四天王はどこから来たのか。


浮上したのが、運慶が弟子たちを指揮して造仏した北円堂説だ。


今の北円堂の四天王は平安初期の作で、運慶の四天王は失われたと


思われていた。だが、南円堂四天王は、運慶の代表作として有名な


北円堂本尊の弥ろく如来や無著・世親像と同じカツラ材の寄せ木造り。


中金堂四天王と南円堂本尊はヒノキだ。


樹種は同じでも、問題は作風。南円堂四天王は右手に剣をとり斜めに


構える不敵な顔の持国天、左手を高くあげて宝塔を捧げる躍動的な多聞天など


力強く個性的だ。これを運慶的と見るか否か。別の説だった藤岡氏も最近の


論文では運慶とみている。学界では運慶説が最有力になった。


南円堂と中金堂は江戸中期の1717年にも大火があった。


中金堂四天王は焼失した。大火からの再建は南円堂(仮堂)は102年後と


遅れに遅れた。康慶作四天王が中金堂に移った経緯は不明だが、


長期にわたり他の堂に仮安置されていたことが要因かもしれない。


興福寺では今、「興福寺国宝特別公開」が開催中。


ふだんは非公開の南円堂と北円堂がともに拝観でき、


康慶・運慶父子の作風が比較できる。


(フリーライター・沖真治)


【素描・案内】


*国宝。写真は持国天

*像高197-206センチ

*中金堂は再建工事中

*「興福寺国宝特別公開」は6月2日まで