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『迫間城跡』が無い…。
もう一度鳥居に向かって歩いて行くと…鳥居の右手前側にポツンと、『迫間城跡』の文字を発見!
なんだ〜、あるじゃ〜ん!
ん?お不動さん?え?どう言う事?と、思いながら指示された方向に歩いて行くと…お不動さんの拝殿脇から先に道があるのが見えました…
拝殿脇から延びた道が…
その道を進むと…石碑が建っていて、え?何…?ゆうぐれふどうみょうおうだいじん…(夕暮不動明王大神)と記載されていました…なるほど、『神仏習合』だから大神と…な。
夕暮不動明王大神…
軽く調べたら、朝日不動明王も近く?にあるみたいでした…🤷
その場を過ぎて先を急ぎました…
その後の道の様子…
やがて、分かれ道に差し掛かり、行き先が記載されていました…迷わずに右側に進みました…。
迷わず右側に…
ん!これは…?堀切か…?しかも、切岸にも見える高台だし…と、いきなり看板の場所を通過したら、堀切らしき場所がありました…。
分かり難いですが堀切です
高台は切岸で、階段下は堀切…。
階段を上がり、高台へ…そこは本曲輪らしき場所でした…。🎉
本曲輪に到達!
つい数時間前までいた明王山が見えました…
明王山が見えました(左側の山)
縄張り図(ネットから拝借)
城主だったんじゃないか?と伝えられているのは大島(光俊)一族(光義、光成、光政、光俊、光朝)が、代々支配していたそうです…斎藤氏の家臣長井氏配下だったみたいで、後に信長、秀吉に従い、関ヶ原の合戦時には一族は分かれて参戦し、後に負けた側の光俊は父の光義、光成の功績により許されたそうで、そのまま江戸時代旗本として存続したそうです…
関市工業団地が見えます…
本曲輪を囲むように帯曲輪が存在します…
本曲輪から堀切を眺める…が、分かり難いですね…。
下に降りて見た堀切の様子
2つ目(本曲輪より離れた側)の堀切の様子…
落ち葉が堆積してるけど空堀だと思われる跡…(上)
崩落したりしてるが、土塁か?と思われる場所…(下)
土塁?と思われるが…?
一応、遺構は非常に分かりづらいです…。
本曲輪を取り囲む帯、腰曲輪などはブッシュ(藪)で分からない状態でした…
今回は時間不足で迫間不動尊などを寄れなかったし、その他、周辺には見どころも多々あるみたいなので、秋以降、もう一度来て、今回行きそびれた場所と、迫間城跡の全貌にリベンジしたいと思います…😮💨
日暮れが迫る中、来た道を逆に、急ぎ足で戻って行きました…。