2024・仲夏
今回は、前回の話の続きで、関市にある迫間(はさま)城跡(迫間山)を訪れて来たよ。ルンルン

お参りを済ませた迫間八方不動明王鳥居の手前にある細い道と交差する場所にある案内看板には、どの方向にも『迫間(はさま)城跡』を示す文字が無かったんですよね…パックガーン

『迫間城跡』が無い…。

もう一度鳥居に向かって歩いて行くと…鳥居の右手前側にポツンと、『迫間城跡』の文字を発見!ポーン気づき

なんだ〜、あるじゃ〜ん!

ん?お不動さん?え?どう言う事?と、思いながら指示された方向に歩いて行くと…お不動さんの拝殿脇から先に道があるのが見えました…OK

拝殿脇から延びた道が…

その道を進むと…石碑が建っていて、え?何…?ゆうぐれふどうみょうおうだいじん…(夕暮不動明王大神)と記載されていました…なるほど、『神仏習合』だから大神と…な。びっくり

夕暮不動明王大神…

軽く調べたら、朝日不動明王も近く?にあるみたいでした…🤷


その場を過ぎて先を急ぎました…ランニングダッシュ

その後の道の様子…

やがて、分かれ道に差し掛かり、行き先が記載されていました…迷わずに右側に進みました…。OK

迷わず右側に…

ん!これは…?堀切か…?しかも、切岸にも見える高台だし…と、いきなり看板の場所を通過したら、堀切らしき場所がありました…。OK

分かり難いですが堀切です

高台は切岸で、階段下は堀切…。

階段を上がり、高台へ…そこは本曲輪らしき場所でした…。🎉

本曲輪に到達!

つい数時間前までいた明王山が見えました…ポーン気づき

明王山が見えました(左側の山)

縄張り図(ネットから拝借)

城主だったんじゃないか?と伝えられているのは大島(光俊)一族(光義、光成、光政、光俊、光朝)が、代々支配していたそうです…斎藤氏の家臣長井氏配下だったみたいで、後に信長、秀吉に従い、関ヶ原の合戦時には一族は分かれて参戦し、後に負けた側の光俊は父の光義、光成の功績により許されたそうで、そのまま江戸時代旗本として存続したそうです…びっくりキューン

関市工業団地が見えます…

本曲輪を囲むように帯曲輪が存在します…

本曲輪から堀切を眺める…が、分かり難いですね…。

下に降りて見た堀切の様子

2つ目(本曲輪より離れた側)の堀切の様子…

落ち葉が堆積してるけど空堀だと思われる跡…(上)

崩落したりしてるが、土塁か?と思われる場所…(下)

土塁?と思われるが…?

一応、遺構は非常に分かりづらいです…。えーん


本曲輪を取り囲む帯、腰曲輪などはブッシュ(藪)で分からない状態でした…パックガーン


今回は時間不足で迫間不動尊などを寄れなかったし、その他、周辺には見どころも多々あるみたいなので、秋以降、もう一度来て、今回行きそびれた場所と、迫間城跡の全貌にリベンジしたいと思います…😮‍💨


日暮れが迫る中、来た道を逆に、急ぎ足で戻って行きました…。完了