2009年2月18日(水)。


この日は勤務が通常6時間の日でした。

しかし、この週は何かの都合があったか。

そこは記憶は定かではありませんが、8時間の勤務に変更したのです。


しかし、大切な用を忘れていました。

大学院で研究指導を受けることになっていたのです。

17:30から、今年卒業する院生と一緒に受けることをすっかり忘れていました。


当日気がつき、仕事を変更する余地もなく、教授に連絡をとり、ひた謝りして授業をキャンセルしました。


これが不幸中の幸いでした。


この日、21時頃のことです。


自宅の2階で過ごしていました。

そのとき、1階から父親の大きなうめき声のようなものが聞こえてきました。

父親はもともと声が大きいので、何か話しているだけなのだと思っていました。

しかし、その声が言葉になっていないようなのです。


様子だけでも見に行こうと思い、1階に降りていきました。

父の声がする部屋に入ってみると。


父は布団の上で手足をばたばたさせながら、大声で言葉にならないうめき声を発していました。


何が起こったかわからない私は

「お父さん、どうしたの。どこか痛いの?私の言っていることわかる?」

父の顔を見つめながら、ひたすら声かけをします。

しかし、父は何かを言おうとすればするほど、言葉にできず、あいかわらず手足をばたばたさせ、うめいています。


その時母は。


「酒ばっかり飲んでるからだ。苦しめば良いんだ」


母は今、認知症です。まだこのころは診断は受けていませんでしたが、認知症であろうことは日ごろ様子でわかってはいました。しかし、認知症とはいえ、何とも母らしいものの言い様だと思いながら、その言葉を聞き流していました。


「これから救急車を呼ぶから」


誰に向けて言うでもなく、こういいながら、私も気が動転している中で119番通報をしました。


「すみません。救急です。83歳の父です。布団の上で足をばたばたさせて、うめいています。こちらが声かけをしても意思の疎通ができないんです。持病は糖尿病があります。かかりつけはS病院です」


救急隊が自宅に向かう間に、S病院に電話をするように指示をされました。

「すみません。そちらに通院している者の家族です。父に意識障害があり、布団の上でばたばたしながら、うめいています。意思の疎通ができないんです。父がそちらに通院しているため、救急隊から電話するように言われたんです」


電話で話している途中で救急隊が到着しました。私の説明では、話を了解できない、かかりつけ病院に、救急隊の方が私に代わって電話で説明をしてくれました。


救急隊の方の説明では、どうも糖尿病の低血糖状態のようだ、とのこと。

父を救急車に運び、私が一緒についていくことになりました。


救急車の中でも、質問が続きます。

典型的な低血糖の状態ですね、今までこのようなことは? いえ、私はこのような状態を見るのは初めてです。

お酒を飲んでいましたか? はい、ワインを・・・。

夕飯後インシュリンを打ちましたか? いえ、私はそれは見てはいなかったのですが・・・。


救急車で運ばれる10分程度の間に父は静かになっていきましがが、救急隊の方によれば、意識レベルが低下しているとのこと。


病院に到着し、すぐさま処置室へ。家族はそこには立ち入れませんが、中から血糖が30代まで下がっていること、「変な咳をしている」という声が聞こえてきました。


しばらくして、医師が説明をしてくれました。

「糖尿病の低血糖状態になっているので、点滴を3時間くらいします。、このまま入院することはベッドの都合上できませんが、ちょうど明日が外来日になっているので、必ず来るようにして下さい。ここで私は失礼しますので。」


医師は丁寧に説明をしてくれて、その後父の点滴が終わるまで私は病院で待つことになりました。

灯りのほとんどついていない待合室で、糖尿病のパンフレットを見ながら、糖尿病にアルコールが及ぼす影響、低血糖を起こしやすくなることを知り、漠然と糖尿病にアルコールが悪いということしか知らなかった無知さ加減を恥じました。そして、何かの病気で父が亡くなるのは寿命であるとしても、低血糖発作に誰も気づかず亡くなるようなことがあったら・・・、そちらの方が後悔する。アルコール医療が必要だと思いました。


もう一つ気になったこと。それは「変な咳」でした。

去年あたりから、咳込むことが多くなり、痰を吐く回数が増えました。たばこを吸っているわけではないのに、何なのか気になりました。点滴を時折確認しにくる看護師さんに、「なんか、変な咳をしてるって話でしたが・・・」「一度、レントゲンを撮るなり、検査した方が良いかもしれないですね」。


3時間の点滴を終えた時には、午前1時をまわっていました。意識をすっかり回復した父とともに、タクシーに乗って自宅に戻りました。


これがすべての始まりでした。