テレビ📺をぼ〜っと見ていた時、思考を消してみようと思い立ち、ただただ画面を見ていた。
言葉もできるだけ聞かずに。
そこに人がいて、会話をしたり、説明してたり、動いたりしている。
そういうシーンが、次々と流れていく。
一つのことが起きては(現れては)消え、また現れ消えていく。
言葉、思考がなければ、その起こりを見ているだけなのだなぁと、思った。
喋りがないせいか、画面越しからは波動もあまり感じられず、均一的。
私達の現実と言われる日常も、また然りだ!
イスラエルの🇮🇱戦争🪖のニュースも、データとしてある、戦争の映像が映し出されているだけにしか、見えない🫢
空に細長い雲が現れたのを、それは龍🐉だと思考し、そこに何らかの意味付けをすることは、ただそう在る起こりを、ありのままに見ていない行為ではないのかも、と思ったり😗
ただ在る起こりに、どんな意味付けをして世界を作っているのか、どんな優劣をつけた世界を作っているのか、どんなジャッジのある世界を作っているのか…それらが私達一人一人が創っている、一宇宙という仮想現実かい、と気づいた😆
思考も言葉も、ホントはいらないんだね😊
感情、思考、言葉がなければ、その世界は、神の愛の世界💖
自我を脱ぐことは、その領域に近づくことだと、感じる。
統合が進み、感情があまりなくなってくると、今にいれて、余計な思考も減ってくるけれど、まだまだだなぁ、アハ🤭
対談とかコメンテーターの言葉を聞かなければ、そこに人がいて、何か話してる顔の表情や、身振り手振り🤌🏻などが、楽しく感じる😊
スポーツとかダンスとかは、人間の肉体の可能性が、半端ないことがわかる(これも言葉での説明ですが)🫤
もうブログを書くのも、人のを読むのも、終わりにしていいのでは?とも思う。
でもやっぱ3次元意識から、綺麗に出ない限り、言葉を握り締めてしまうなぁ😔
強力な洗脳下にある、私達人間よ❗️なんだわね😩
昭和の論客と言われた、社会哲学者、西部邁氏(故人)は、淡々とした喋りで人を論破してきた人だったけれど、最晩年「言葉は虚しい!」と言っていたのが、忘れられない。
言葉は虚なのだ❗️
見る👀なら、言葉から放たれた波動を見る👀べきなのだろう、精進しよう😉