関東と関西…平成大不況のいまでこそかなり差がついてしまいましたが…江戸時代(特に初期)に於いては圧倒的に西側が有利…つまりは経済的にも文化的にも西高東低でした。その差がどの時点で並び…どの時点で逆転したかは当時の確かな『経済的統計資料』が存在しない事と、基準になる『座標軸』を何処においたら良いか分からないこと…
ぶっちゃけ僕自身の不勉強から確実な答え出す事が出来ません。ただ経済的には八代将軍『徳川吉宗』が大阪の株仲間…米問屋達の組織と争い彼らに一定のダメージを与えた後…
文化的には人形浄瑠璃やら歌舞伎…の原作者の主流が江戸に移った時期…即ち元禄末期から文化、文政期の事と思われます。
あ、当時の歌舞伎やその元になった人形浄瑠璃は今のように古いモノ…古典をやってるだけってわけじゃなく新作もどんどん舞台に載せてました。
ま、ともかく江戸時代の中後半というのは西高東低だった大衆文化や芸能が急速に江戸中心へと変わる時期だったのです。
ただし料理の…味の世界をのぞいては…。

それでは東西二つの文化の一番の違いはなにか? つ~話になると、それは勿論…武士の存在です。士農工商のヒエラルキーの中で…トップに位置する『士』即ち侍階級は江戸時代に於いて、人口の一割程度でした。つまり二本差しの侍は十人に一人程度しか存在しなかったのです。この割合は所謂『藩』(はん)と呼ばれる地方都市の中心部でもさして変わりませでした。例えば九州の熊本…外様(とざま)の大藩である『細川藩』に於いても…現在の熊本市内での士分(しぶん)の人間の割合は二割程度だったと思われます。で、それ以外は全部農工商…わけても全人口の七割におよぶ農…百姓衆の割合は圧倒的です。
あ、この稿では便宜上耕す土地を持っている『本百姓』と土地を所有していない『小作人』を同列に扱っています。ホントは分けて考え無くちゃならないですが…この二つの違いに踏み込むとやたら面倒臭い問題が出てくるんですよね。基本的にファジーでアバウトなのが沙羅パパ君の本質ですから勘弁してください。

で、江戸時代つ~か、日本って国の基本姿勢はゲン担ぎと駄洒落とごろあわせが大好きです。これは商人だろうと侍だろうと変わりません。つまり江戸前の料理も関西風の料理も味云々の前にど~んと語呂の良し悪しと言う大前提が聳え立っているのです。例えば鰻料理に於いて、上方の腹開き…江戸の背開き、なんて言うのは良く知られていますが、江戸独自の料理の常識…作法なんてモノは近年どんどん失われています。他の地域では人口の一割しか居なかった侍が言わば首都である江戸だけは半分もいたわけで…この特殊性を理解しといないと江戸前割烹は分かりません。
素朴な疑問なんですが…和食の世界ではいつまで上方(カミガタが)中心なんでしょうな?
江戸時代が二百六十年…明治になって約百五十円年間…東夷(アズマエビス)と言われた江戸の地(エドは蝦夷の古語つまりは超弩田舎の意味)も元禄辺りからはそれなりに拓けて京・大阪とも肩を並べる程度にはなっていた(筈である)ワケで…
芸能も文芸も一大発信地になっておきながら味の世界だけ『後進国』って変じゃないですか? あ、よくテレビの時代劇で出てくる江戸風俗…色んなお店が出来て賑わっているのは文化・文政(所謂カ政期の話)で元禄時代の江戸はまだまだ田舎です。
でも八百善なんかが頑張ったから亨保(1716~1736)
の頃にはそれなりに盛えてたはずです。
今でこそウナギの専門店みたくなってる今清だって江戸時代は総合的な料理屋だったわけで…歴史と言うなら年がら年中戦災に逢っていた京都や大阪より江戸の方がナンボかマシなはずです。
ま、昔の江戸は戦争が無いくらいの田舎だったわけですがね。
なんにせよ今時、片田舎の商店街に行っても『関西割烹』を名乗る店は在っても『江戸前』と称する料理屋はまずありません。反対に寿司の世界は江戸前の一人勝ち状態…これってどう考えても変ですよね?
あ、いま思い出したけど70年代の終わりだか80年代の始めに大阪はミナミに『江戸ッ子だんねん』と言うふざけた名前の江戸前寿司が在りました。

大将はコテコテの関西人(京都は鞍馬の人)でかなりの教養人でした。筒井さんや小松さんの話で盛り上がったのを今でも覚えています。
ん~この話はとても一回じゃ終わりそうも無いんで次回(何時だよ?)に続きます。

注・元禄(1688~1703)
文化(1803~1818)
文政(1818~1830)