中高年のメル友の間で明治談義がされ、
書きかけの小説の一部を送りました。
ご用とお急ぎでない方はどうぞ。
花崗岩に彫られた仏さまは、木立のなかにひっそりと立っていた。案内してくれたひとが、この石仏は、仏像彫刻師の太田古朴さんが土のなかに埋もれているのを発見したもので、天平後期の様式を示していると教えてくれた。
観ると、大杉の根本のようにぐっとそり返った花崗岩は、どっしりとした三面になっていた。しかし、一面はなにも彫られていないため、石仏は彫りの深い二面二尊の如来像である。案内してくれた初老の男は、この石仏が土中に葬り去られたのは、明治政府が神道の国教化をはかったときだといわれるが、律令制をまねて政府がつくった神祇官や神職に扇動された人びとが各地の寺を襲撃するという事態のなか、興福寺では、五重塔が二百五十円、三重塔は三十円で買い手がつき、薪にして売却しようとする企てもすすめられたのだと言った。
初老の男は、白髪まじりの髭を端正にそろえた美男子で、いろいろなことをよく知っていた。彼は、山道を登ってきたとき枯れ枝に覆われている山の斜面に「大乗院殿御持山」と彫られた石碑があったでしょうと言い、大乗院は、興福寺にあった塔頭のひとつで、この山の持ち主だったと考えられているけれど、寺院そのものは明治の廃仏毀釈で姿を消してしまった。これらの事実から推察すると、政治の狂気ゆえに石仏が埋められたという説はまちがいないと思われるなどと説明してくれた。
明治政府はその後、我が国の軍隊は天皇の統率し給うところにあるという軍人勅諭、天皇は神聖にして侵すべからずという明治憲法、そして、いったん戦争になったら天皇のため命をささげ忠義をつくせという教育勅語などによって、神とされた天皇への崇拝と神社への参拝を強要した。
天皇を神にまつりあげる政治によって、奈良県では東大寺、興福寺、法隆寺につぐ大寺で「西の日光」と呼ばれていた内山永久寺(天理市)が廃寺となり、平城京の東六坊大路から川をわたったところにあった眉間寺など、多くの寺院が消えていった。興福寺は、春日大社と一体の関係にあったことから、僧侶はみな神官とされ、またたくまに荒れはてていった。
天皇家にしても昔から神道だったわけではない。明治維新までは、東山区にある泉涌寺の檀家であり、京都御所の「御黒戸」という仏間には代々の天皇の位牌や念持仏がならんでいたが、明治政府の神仏分離政策によって仏間はこわされ、位牌などは泉涌寺に移された。こうして日本は、軍国主義と侵略戦争への道を歩むことになるのだが、宗教を弾圧しようとマスコミを動員しようと、時代の進歩はだれにも止めることができない。
マーちゃんたちは、近鉄奈良駅についたあと、囲炉裏の灰にならずにすんだ興福寺にお参りし、「おかる」という店でお好み焼きを食べながらにぎやかに反省会をした。
「今日は、いろんな事を教えてもろうて、もう頭がいっぱいやわ」
「五重塔が二百五十円なら、うちに買うて帰りたいわ」
「どこに置くねん。あんたとこ庭もないのに」
「アハハ、そらそや。土地ごと買わなあかんね」
「五重塔、うちが背負って持ってってあげるわ」
「うちは三重塔でええわ。三十円、いま払おうか」
仲間たちは、姦しいほどしゃべりまくる。
「廃仏毀釈とかなんとか難しいことはわからんけど、小学校の唱歌に、村の鎮守の神さまのォ、という歌があったでしょう」
そう言ったのは、この日のリーダーであった。
「そうそう、ドンドンヒャララ ドンヒャララという歌でしょう」
「神様は、鎮守の森にいるということやね」
マーちゃんは、屈託のない話に耳をかたむけながら、唇のなかで『村祭』をうたってみた。すなおな歌詞で心が和む気がしたが、三番をうたってドキリとした。これまでふかく考えたことはなかったが、「治まる御世に神さまの めぐみ仰ぐや村祭り ドンドンヒャララ ドンヒャララ ドンドンヒャララ ドンヒャララ 聞いても心が勇み立つ」という歌詞であった。この歌の神さまは明治天皇のことかもしれないと思った。勇み立つということばにも戦争のにおいを感じた。
「うかない顔をしてるわねえ、疲れちゃったの」
となりに坐っていた仲間が心配そうに顔をのぞきこんだ。マーちゃんは、「ええ……」とあいまいな返事をした。なに気なくつくったであろう素朴な歌詞が、石仏まで案内してくれた初老の男と重なり、なんども胸のなかを去来した。
近鉄奈良駅で解散し、仲間たちとわかれて電車に乗った。
――明治といえば、啄木が生きた時代だ
とマーちゃんは思った。
石川啄木は、「新しき明日の来るを信ずといふ/自分の言葉に/嘘はなけれど」と詠ったけれど、啄木が苦悩した時代といまを比べて、いったいどれほどの違いがあるのだろうか。明治生まれの俳人、中村草田男に「降る雪や明治は遠くなりにけり」という句があるけれど、自由民権運動を弾圧し、大日本帝国憲法をつくった明治という時代は、自分を苦しめたいまにつながっている。あの時代の天皇制や廃仏棄釈という宗教破壊がなければ、侵略戦争も太平洋戦争もなかったのではないかとマーちゃんは思う。
この句は、久しぶりに母校をたずねた草田男が、そのときの感慨を詠んだものだというが、明治は遠くなったどころか、いまもなお大手をふって闊歩している。それが証拠に、昭和天皇が死の病にとりつかれ、病名が報じられた昨年の秋、政府は閣議決定を発表して、小中学校の運動会など歌舞音曲をともなうイベントを控えさせた。そして年が明けて一月七日、予定稿どおり死亡が発表されると、市役所など地方公共団体に弔旗をかかげさせ、国民には二日間の服喪をもとめた。
テレビ各局は、歌番組、ドラマ、クイズなどの中止を申し合わせ、「天皇陛下におかせられましては、本日午前六時三十三分、吹上御所において崩御あらせられました」などと戦前のことばをつかい、二月二十四日の葬儀は、氷雨が降るなかを神道形式ですすめられた。明治の昔とおなじ状況が演出されるなか、アナウンサーは使いなれないことばに緊張し、低い声で口ごもるようにそれを伝えた。
だが、少なくない人びとは、葬儀のもようを一日中ながすテレビに飽きあきし、レンタルビデオ店はどこも大繁盛で、ふだんの五、六倍の貸し出しだった。それだけでなく、じっさいに死んだのはクリスマスの日だという噂がながれた。真偽についてはわからないけれど、国家神道の絶対権威者である天皇の死がキリストの誕生日と重なっては困るということで、死亡日を正月の松があける七日にずらしたのだという。
――豊かな自然のなかに神々をみいだすのが神道ではないのか
と、マーちゃんは思う。
――国が宗教に関与するのは、本来の神道を貶める以外のなにものでもない
怒りに似た感情さえわきあがってくる。
――ほんとうのところ宗教とはなんだろう
考えずにはいられなかった。