自他ともに人と縁には恵まれている私。
当たり前だとは思っていないし、言葉にすると一言では足りないくらい本当に感謝している。
それぞれの状況や生活がある中、入院中、退院後も不安定だった私の段階を見守りながら接してくれた。

従姉、親戚、友人も含め支えてくれた方には素直に感謝が出来るのに、どうしても感謝どころか暴言を吐いていた相手は海外で生活をしている弟。


本日は傾聴からのエンカウンター。
話したことは弟と関係ない話なのに、しこりのような固い私の握りしめた手の中。
弟とのやり取りを思い出すだけで腹が立ち、涙が零れる。
見たいけど見たくないようなこの感情、「私の本音はどこにあるんだろう?」って、私自身に問いかけた。
 

 

私は大事な人に強がることで「淋しい」を打ち消そうとした。
子供のころから弟はいつだって私に優しい。
私が淋しいって言ったら心配をかける。強い姉でいたかった。
任せて安心の姉でいたかった。

病気になって、私の小さなプライドなんて小さすぎで馬鹿みたいって思ってたはずなのに。。。

帰宅して食事を美味しく食べて、もう一度私自身に私の本音を聴いてみた。
今は淋しいより一番心配してくれた弟に心からの一言を伝えていない。

最初の2週間は誰と話していても涙が溢れ、頭の中は今までとまったく変わらないのに、舌も含め麻痺があり話していても聞き取りづらかったり頭と話すスピードに時差があった時期。おまけに脳梗塞の出来た場所や大きさから平衡感覚に影響が出て右目、右手も思うように動かせない時期。

私に病気になって諦めた小さなプライドよりも病気になってからも私はありがたいくらい人に恵まれてると気づかせてくれたのも弟だった。泣いていいから諦めるな今が出来なくても1年後2年後に続けた先に繋がるんじゃないかって俺は思うって電話の度、説教に聞こえたりもした。前々、そんな素振りは感じられなかったけど、私と弟は似てる部分と全く異なる部分がハッキリしていて、弟も弟の嫁いわく相当私の事を心配していたそう。それを伝えてくれた弟の嫁にもありがたいと心から溢れた。

弟には弟に対してだけどうしても素直になれなくて、今日の今日まで放置してた一言。ずっと心配してくれてたのに退院後も強がることを選び大人げない言動をしてごめんね。から文章の始まりにした。感謝してることもありがとうも思うままに伝えた。最後は健康な時こそ違和感があったら早めにケアするように伝えた。なってからでは間に合わないこともあり、冷静でいるようでパニックになると弟のがあわてんぼう。私は普段は弟の生活に口出ししないけれど、朝が早い上に車移動が必須の弟。健康な時は健康でいるのが当たり前に続くと私自身も疑ってなかった。弟には元気でいて欲しい。

やっぱりナノさんから学ぶ傾聴は深かった。



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2022年夏も残暑に移り変わる頃、私は脳梗塞を発症した。

 

 

今までの病気と異なり、最初の1週間は自力で起き上がることも

寝返りをすることも身体の左側には一切力が入らなかった。

この写真を撮った時もベッドの柵に右手と右足でバランスをとって横を向いた。

頭の中では普通に言葉があるのに、口に声を出すと思うように口を動かす事も

スピードも遅く、目の前にある水にも右手さえ手が届かない時は生きている心地
がしなかった私。おまけに私は前庭動眼反射(飛行機で気流が悪い時に機内が揺れて、
視点が定まらず目が回る感覚)が酷く、意識があると頭や目が常に回っていて気持ちが
悪かった。

 

退院後は本気で施設入所も考えた私。ベッドから起き上がることも1人ではできないのに、リハビリ病院へ行けば歩ける様にはなると言われたけれど、急性期病院からの紹介状には検査の結果杖を使っての歩行と左上肢、脳には重度な後遺症が残る可能性大と書いてあったそう。話し方こそ、若干遅かった時でも、どう話を切り出せば内容が知れるかは経験上の知識が役に立った。表面上では理解している風をしていたけれど、【 検査データだけで、私の大事な人生勝手に決めるな!!】と腸は煮えくり返っていた。当時は怒りをバネにしなければ気持ちが折れそうなくらい緊急事態だった1年前。

 

リハビリ病院でリハビリをしたのは私だけれど、私は病気前から人と運には恵まれていた。病気になって自分のために地味なトレーニングを続けるのは限界がある。簡単には何も出来ない。今では信じれないけど、スタートは紙コップさえ重たかった。左指は第2関節から固まっていたし、私の思うペースで体は回復しないのは私にとっては情けないやら悔しくて。地味なことさえできなかったりすると笑い飛ばしていたけれど、情けなくて悔しくて思わず涙が溢れたこともあった。それでも諦めないでいられたのは、私を心配して見守って応援して、信じて待ってくれた人が沢山いたから。不安定だった私を支えてくれて本当にありがとう。

 

今までのように飛んで行くことはできないけれど、私を心から思ってくれたように私も私の大切な人が元気で笑っていられるよう、今まで通り私にできる限りで生きていきます。食に関しては食べる量や内容を今までの半分くらいにして、工夫はしているけれど。バスも電車も1人で乗れます。先日は一度は諦めた大好きなお菓子教室の粉工房さんへ、一番仲良しだった先生と参加。
粉工房のお菓子は先生の優しさが溢れていて、見ても食べても幸せ。


K先生との時間は笑ったり笑ったり、私が不安定になるとで泣き虫モードは泣いたりしながらの日々。私が退院してから静かになったそう(汗)子供が初めて参加しましたのような、私を嬉しそうに写真を撮っていたK先生。またいつか会えたら、うれしいなぁ。

現在はデイサービスで体力づくりをしたり、就労移行支援で社会復帰の準備をしたり、弱った母の所へ足を運んだり、傾聴の学びで現在の自分の課題を確認したりしています。脳梗塞の後遺症自体が、患者が感じる感覚で個人差があるそうで、気にするとキリがないので調子が悪ければケアをする習慣をつけました。長時間立っていることや移動には少し時間はかかるけれど、私の今のペースがわかってきました。

病気になる前の私は努力をすればある程度は何でも1人でどうにかできると勘違い甚だしいコッソリ尖った一面があった。。。 病気になったことで、沢山の感情と愛・思いやり・優しさ・強さと循環を学んだ。病気にならなかったら傲慢な嫌な部分を隠していた気でいたかも。 やらないで諦めるは私の辞書にないけれど、努力の限界や自分本位ばかりでは生きて行けないことが身に染みた1年だった。

ありがとう!!




 


2回目に運ばれた病院でも私のTIA(一過性脳虚血性発作)は
治まっていて、念のため検査入院と言われた私。問題がなければ

明日の昼には退院っていってたのに。

 

病院の夕飯を食べて眠る前に普通にお手洗いへも行けた。

なのに、蒸し暑くトイレに行きたいと起きた早朝。

私の左半身は硬直が始まり、構音障害(頭では理解してるが

声にすると唇から顎にかけての麻痺で言葉にならない)がでていた。

 

慌ただしく検査をすると、急性期の脳梗塞で2週間安静の点滴治療と

だけ言われたものの、ようやく起き上がらせてもらっても体が船に
乗っているかのように揺れているのが自分でも解った。

 

看護師も看護助手も私の部屋の隣が詰所だったので、「救急で運ばれた
●●さん、やっぱり出ちゃったんだ。若いのに可哀そうね」と噂話のように

毎日話題になり、【眠って起きたら全て忘れてしまうんじゃないか?】と
不安で怖くて夜になると2.3時間しか眠れず、昼間にうたた寝をする程度。

横になるとグラグラが激しくなり、医師に申し出るも「脳梗塞だから
仕方ない」とだけ言われ、私の病院に対する不信感はピークに達した。

沸点の低かった私は悔しくて気づくと嗚咽して泣いてばかりだった。

コロナ禍で大事な人には会えず、どうにか動く右手のみ工夫してFBに

吠えたり友人にメールやラインで聞いてもらったり、今までと比べ物に
ならないくらいドン底にいた。

 

 

 


 

2022年の年始は母を救急車に乗せて、病院巡り。
私自身も同じ業界で転職をして、ようやく母も落ち着いてきた夏。

 

私自身が1日2回救急車に乗るなんて…

笑い話にするつもりでいたのに、私の体は限界だったようで

 

2022年8月17日に目覚めたら、私は構音障害と左半身不随。

脳は正常に回転しているのに、頭に言葉は浮かぶのに、声を出すと

まともに話すことができなかった。

 

感覚はあるのに、力が手足にも寝返りさえ打てない状態になった。

2022年夏 

私は私自身の体と向き合うことになった

 

 

右には麻痺もなかったけれど、目を開けているのもやっとだった頃の私。

私が子供の頃から弟の誕生日は覚えているのに、私の誕生日は忘れやすい母。淋しかったり悲しかったり悔しかったりで、わざと母が気付かないのを見過ごしてふて腐れたり泣いたりもした。


昨日は母との面会日。『またお母さん、文子の誕生日忘れてた。◎(弟)も一緒にハッピーバースデーを唄いましょう』と施設の会議室でテレビ電話をしている弟と母が歌ってくれた。


先月は弟の誕生日で母と私と歌っていたけれど、私のために歌ってくれる母を見たら嬉しくて涙が止まらなかった。弟はプレゼントなくてゴメン。母は覚えてなくてゴメンと言われたけれど。


『お母さんがどんなに酷いこと言っても、お姉ちゃんは文句1つ言わず前向きな言葉をかけてくれるのよ』と言われた後だった事もあり、私の目の前にいる母は会話が出来ない時もあったけれど、ちゃんと私を見てくれていた。


それが何より嬉しくて、隣に母が笑っていてくれる事があったかくて。お母さんがこうして隣にいてくれる事が、何より嬉しいと声に出せていたかな。




このまま穏やかな時間が、ただただ続いてくれたらと願わずにはいられなかった。母の笑顔や歌声を心の大事な場所に置きつつ、私は私の人生を生きる。


幸せは非日常ではなく、日常にある何気ない事だと気づいた53歳春。


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