児童養護施設。。。。 | つくしのブログ

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母(私)つくしです。
発達障害の兄弟、にぃーにとちびちゃん。たまに娘、おねぇーちゃん。

みんな障害だけどいろいろあるけど、手仕事大好きでお料理や畑の記事も多いです。




娘の闘病生活

何度も   何度もね
危篤と言われた治療後

再発    移植

移植後のGVHDで
1年近く寝たきりで
度々の危篤状態。

今、車椅子生活で
身体障害者1級だけれど
入退院生活で大変だけれど

本当に頑張ってくれてます。

また、娘の事も詳しく
書いていければなって
思っていますが、、






娘が発病して

即日入院、治療となり

私は、娘の入院先へ
毎日通うようになりました。

近くの大学病院が満床で
車で1時間ほどの
総合病院へ

危篤状態が続いたり
娘が不安定だった場合

車やデイルームで
待機したり

とにかく清潔に保たなければ
ならないので

家に帰ってからは
洗濯、掃除の毎日で

これは
にぃーにが居たら
出来ていなかった。

にぃーにを守りながら
娘の闘病生活を
見守る事は出来なかった…

そう思っています。

でもそれは
にぃーにが安全で安心な
所に居るという前提でした。


その中でも
にぃーにへの面会を
日々、希望しながら

まったく出来ず

その説明もなく
聞いても説明なく

娘との闘病生活
娘の危篤状態が続く…

しばらくして
にぃーにが施設になれるまで
との説明を聞きましたが

にぃーにへの説明も含めて
親であるのに伝える事を
させてもらえず

どれほどの寂しさや
悲しみを、にぃーには
したのだろうか。

言い分はわかっても
納得はいかない‼︎

だって親なんだよ

会えるって聞いてたよ
会えるって言ってたよ‼︎


パートナーは
娘の状態に関して
全く聞きたくないと

話すなと

はじめの頃は
パートナーが仕事を
しておらず

車の運転はすると
そして行き帰りの罵声…

娘の為     にぃーにの為と
思いながらも

心労は溜まっていく

私は当時まだ
今のように個人的に
喧嘩や言い合いを
した事がなかった。

只々だまって聞いている

そのうち症状として
耳が聞こえなくなったりも
してしまうのだ…

情けない。


にぃーにが帰れる
そんな状況でない事は
充分承知してたけれど

会って話す事も出来ない
なんて、、、

だんだんと
自分の中から馬力?   力?

とにかく何かなくなっていく

全て自分が悪いんだ
私が居なくなれば、、、

負のスパイラル。

にぃーにが泣いていないか
夜中、歩いて行ったりしても
聞こえない

泣いてないって安心から
不安に変わっていく

覗きに行ったりしたら
余計に逢えるチャンスが
遠のいてしまう

施設に電話等して
迷惑をかけても同じ

それは、私の障害担当の方から
聞いていた。


娘の闘病生活中も
パートナーの生活面を
考えなくては、ならない

病院から帰り
娘の洗濯や準備だけでなく
パートナーの食事、洗濯etc

当たり前と思っていたけれど

娘が入院    にぃーにがいない
パートナーとの生活

私には、だんだんと
理解出来なくなってきて

どうして   どうしてにぃーにが
居なくて

パートナーがいるのか

彼と私は何の関係も無いじゃ
ないか⁇

どんどんそんな思考に
なっていって

にぃーにがいない
パートナーとの生活が
私の中で不可能になっていった。

パートナーと話し合い
別々の道を、、、

それからパートナーは
ストーカーとなっていった。

そのこと事態が
自分が駄目なせいだと思って


娘の退院が決まって
来る時期になってくる中
私の状態が悪くなっていった。