「どうしてこんな簡単なこともわからないの!」
リビングから聞こえてくるあの人の怒鳴り声に“僕”は僅かに眉を顰め、自室を出た。
「兄さん」
“僕”よりも先に廊下に出ていたらしい夜明は、何とも言えない表情でリビングの方を見ていた。
「またですか」
溜め息を吐き、義母の怒りを鎮めるためにリビングの扉を開けた。
義母は“僕”と夜明には気付いていないようで、日暮を尚も怒鳴りつける。
「いくら数学は苦手だからって、こんな点数取って恥ずかしくないの!?」
「…苦手、だから…今回は、沢山勉強した…でも、ダメだった」
「じゃああんたの努力不足でしょう?沢山勉強したって言うなら、結果を出してみなさいよ!あの真昼でもこんな点数は取ったことないわよ!」
(嗚呼、うるさいな)
苛立たしく思いながらも“僕”は表情に出さないよう笑みを張り付けて義母に声を掛けた。
「どうしたんですか?義母さん」
“僕”と夜明の存在に気付くと、義母は鬼の形相から一変し、優しく微笑んで
「あら、深夜くん、夜明くん。お勉強の邪魔しちゃったかしら、ごめんなさいね。この子が数学のテストであまりにも酷い点数を取ってきたもんだから、叱っていたのよ」
と、ちらりと日暮を見る。
「そのテスト、見せてもらっても?」
「え?いいわよ」
“僕”は義母からテスト用紙と問題用紙を受け取ると、日暮が間違えた箇所に一通り目を通し、テーブルの上に無造作に置かれているシャープペンを手に取った。
「日暮ちゃん、ここの応用問題ですが。こっちの公式ではなく、この公式で考えてごらん」
俯いている日暮に問題用紙の端の空白に公式を書いて見せると、日暮は言われた通りに頭の中で計算し始める。
直ぐに答えが出せたのか「答え…24?」と首を傾げる。
「うん、正解。義母さん、日暮ちゃんはちょっと人と違う角度から考えれば直ぐにこんな問題解けます。今からコツを教えるので、今日はもう叱らないであげてほしいのですが」
「俺も、兄さんほど教えるのは上手くないけど…出来る範囲で教えます」
「二人がそう言うなら…」
義母が引き下がると、「日暮、兄さんの部屋に行こう」と夜明が日暮の手を掴んでリビングを出た。
あの人は、日暮のことを何も分かっていないし、分かろうとはしなかった。
真昼のこともそう。
初めて会った時には既にギャルだった真昼にも、世間体を気にしてのことだろう、よく「そんな恰好して恥ずかしくないのかしら。みっともないからあまりそれで出歩かないでちょうだい」と心底嫌そうに吐いていました。
父親は父親で、相変わらず夜明に対する評価が低く、新しい娘たちには関心がない。
そんな家庭環境の中、“僕”は少しずつ歪んだ正しさを胸のうちに膨らませていきながら仮面を被って耐えました。
***
父親が再婚して半年ほど経った頃。
“僕”は、ある計画を立てていた。
「卒業したら家を出る?」
「えぇ、だからそのときは君もいらっしゃい。いつまでもこんな家にはいられない」
「でも、真昼たちはどうするんですか?」
「あの二人にも近いうちに話して、連れて行くつもりです」
「そうですか。…だから兄さん、バイトの時間をどんどん増やしてるんですね?」
「えぇ、出来る限りお金を貯めておかないと、君たちを養えませんからね」
卒業したばかりでいきなり三人も養えるわけがない。
そんなことは分かっているので、数ヵ月ほど前に理解のある親戚たちに相談し、困ったことがあれば協力してもらえるようになっている。
だが、出来る限り人に迷惑を掛けないようにと“僕”はアルバイトを掛け持ちし、学校以外の時間は殆ど働いている。
「…俺も、バイト掛け持ちします。兄さんの負担を少しでも軽くしたい」
「Thanks,夜明」
こうして、“僕”はレストラン、ファミレス、使用人喫茶で、夜明は喫茶店とコンビニで休日も働き、着実に貯金を貯めていった。
何となく“僕”たちのやろうとしていることを察した真昼も、何か出来ることはないかと家事を少しずつ覚えていき、慣れてくると義母の代わりにやるようになった。
だからなのか、義母の、真昼に対する風当たりは以前に比べて良くなっていったように思う。
けれども、日暮だけは何をやっても気に入らないらしく、何かと理由をつけてはストレスを発散させるように怒鳴りつけ、酷いときには物を投げつけたりぶったりした。
そしてついに、あの事件が起きた。