咲いているのを見て、時の経つ速さに衝撃を受けたアジサイが、もう色褪せています。


少しの絶望が滲んだ6月後半も過ぎ去り、7月に突入です。


疲労が蓄積されると、元々のネガティブさに拍車がかかって困る。


テレ東音楽祭の数日前、お風呂で流してたラジオでたまたまフラワーがかかって“おっ”って思いながら聴いてたんやけど、

♪こんなにかんばってるきみがいる~叶わない夢はないんだ~

のところで、“うん。がんばってる。………、夢ってなんやろう”ってなったり、

あとは

“あなたにだけ歌える世界……、うちにだけ歌える世界ってなんやろう”ってなったり。


別にうちじゃなくてもいいんやろなぁとか思ってしまうことが多々あったりして。

そう思う自分が自分でも鬱陶しいほど。


そんな風に思ってることを言葉にしたり外に出したりするのも億劫に感じる日々。


ひとついい点をあげるとするならば、なにか不快に感じることに対して“くっだらね”としか思わなくなるということでしょうか。



今こうやって書いているということは、便りがあるのは元気な証拠\( 'ω')/


…あれ?違った?







この間、優しさとしての行動なんて全くこれっぽっちも思わずにやっていたことに対して、「優しすぎる」と言われるということがありました。


たぶん、うちが優しすぎるんじゃなくて、その行動を優しすぎるという風に捉えたその人がピュアすぎるんやとうちは思う。


正解なんて分からないし、ないと思うけれど。


職場には、学校を卒業してまだ一年目や二年目の二十歳くらいの人たちもいるんやけど、ものすごくピュアさを感じる最近です。


いいな。あのピュアさ。


逆に、自分より年上の人たちの、あの人がどーたらこーたらとかいう陰口や噂話、すぐに口から吐き出される文句にウンザリすることの多さ。

※世界中の全てのその年齢の人たちがそうというわけではなく、あくまでも今うちが見て感じている世界の中の話。



うちに対する印象は、人によって違うと思うし、誰が見た自分が自分の本質なのかとかも分からないし、自分で自分の姿は見えないけれど

自分の心が向かう方向は、周りからのこういう刺激によって見えてくるんだと思います。


だから、出逢いって大切なのかな。



自分も誰かに刺激を与えていたとするならば、ちっぽけでも良い刺激になれる人間だったらいいな。