なかなか物を捨てられない自分です。


まだ使えるんじゃないか、とか

愛用してたものや共に時間を過ごしたものが、自分が捨てた瞬間「ゴミ」になる切なさとか。
(ひどい例で言えば、新幹線乗ってるときにお菓子を食べた後、降りた駅で箱や袋を捨てるときに、心の中でちょっと切なく“ありがとう”って呟きながら捨てます)


んなこと言ってたら、片付かないだけの状況が生まれるだけなので。


今年も残り2ヶ月を切り、年内に部屋をひっくり返して、捨てるものを捨てよう

ということで、取りかかり始めています。


たぶん小6の頃に、よく履いていたズボンがありました。


履いてみました。


裾が短いとかボタンが閉まらないとか、そういうことはなく、普通に履けました。


これはどういうことでしょう。


①成長してない。


②成長したあと、また縮んだ。


③当時、裾が長めのまま履いていた。


④胴が伸びて、足は短いまま成長した。



…もうどれでもええわ。





手にとって、ペラペラめくってみたノート。


数年前に書いたと思われるものを発見。


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うちは都合のいい人なんかじゃない。

ただ周りに合わせてるんじゃない。

大切な人たちの大切を優先したいだけ。


言葉が嫌いになりそうだ。


自分のこと棚にあげて、理不尽なこと言わんとってよ。


言葉を信じて、そうしたのに
なかったかのようにせんとってよ。

もっと言葉に責任持ってよ。


人が嫌いかと言われたら、嫌いじゃないと答える。


人を信じられないかって言われたら、信じられると答える。


でも、

人だけが持つ“言葉”を信じられるかって言われたら、頷けないのが今の自分。


どの言葉を信じたらいいのか分からない。


それなのに、信じられる人は思い浮かべることが出来る。


だからなおさら、訳がわからなくなってる。


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めっちゃ病んどる(笑)


って思ったけど、今も大して変わってないか(笑)


言葉が嫌いになりそうなことは今でもわりとよくあるし。


でも“信じる”ことについては、自分の信じたいことを信じればいいと思う今がある。


理想を本当と思い込むことじゃなくて
自分の意思で信じて、もし違ったとしても、それは自分が信じた結果で自分の責任でもある。


そんな今。


信じたい。