檸檬インフィニティ∞ | 五月 鯉之介 |本 | 通販 | Amazon
パーム国から来た青年
南国パーム国から、なぜシンは日本に来たのか?
それは、同じ年のアヤが以前、日本で数年暮らしていて、帰国後、マラソンランナーの
優秀な女子選手を、目の当たりにしたと、しきりに彼に熱弁したためである。
その話の影響を受けたのだ。シンは二十二歳で陸上をやっていた。と言っても、どこかに所属している訳でもなく、ただ時間があったら走っていた。
小さい頃から、いつも走っていた。もう、走るのが日課になっていた。夢は大きくオリンピック選手だ。さらに言えば、世界一の金メダルを首にかけたい。
シンの職業は郵便屋さんだ。もちろん、走って郵便物を届けていた。雨の日も、風の日も。たとえ、重たい荷物がある時でも。シンは町一番の力持ちでもあった。
シンは思った。アヤの話からすると、そんなに優秀な女子の陸上選手がいるなら、当然男子選手もいるに違いない。
シンは日本に行こうと思った。日本の選手と切磋琢磨して、今まで以上に速くなり、夢に一歩でも近づきたい。
「でも、何のコネもなく日本に行っても、どうにもならないわよ」とアヤは言う。
「それはそうだけれど、陸上王国、日本にいるだけで何かが始まるような気がするんだ」とシンは自分の正直な気持ちを言った。
「毎日、毎日、生活費を稼ぐだけで、身体がボロボロになるわよ」アヤは心配する。
「俺は町一番の力持ち。少々のことじゃあ、根を上げない。日本に行ったら、きっと何かに気づくと思うんだ」シンは答える。
「そんなに言うんなら、もう止めないわ。陸上の話なんか、するんじゃなかった」
☆ ☆ ☆ ☆
狭いアパートで、シンは洗濯をしていた。毎日の日課である。
日本に来てからシンは忙しく働いていた。何もかも一人で全部しなければならない。
日給の肉体労働は続く。アパートに帰ったらもうグッたりで、走る元気もない。
やっぱりアヤの言う通りだった。
『今、帰る訳にはいかない』シンにもアヤに対して男の意地というものがあった。
どうせアヤもすぐに帰ってくると思っているに違いない。
だからこそ、今帰る訳にはいかない。食費は高い。友達もいない。
何一ついいことはない。南国パーム国生まれのシンが日本に来て半年が過ぎた。
季節はもう冬だ。
ある夜、寒さで震えながら歩いていると空から白いものがパラパラと降りてきた。
いつかアヤから聞いていた。
もしかすると、これがそうかもしれない。間違いない。
「雪だ!」シンは確信した。アヤの話から、すぐにわかった。
シンは生まれて初めて雪を見た。なにせ南国育ちである。
噂には聞いていた。雪だ、雪だ!シンは子供のようにはしゃいだ。
これが、たくさん積もると、子供達は丸い玉を作って投げ合ったり、丸い人の形をした
雪だるまというものを作ったりすると彼女は言っていた。
あァ、ひんやりとなんて心地よいのだ。
手のひらに積もる雪。シンはハッとした。きれいだ。
アヤの美しく可憐な顔を思い出した。
しばらく、じっと手のひらの雪を見ていると、溶けて消えてしまった。
なんて、はかないんだ。
その瞬間、シンは日本を旅立つことを決心した。降りしきる十二月の雪とともに。
そう、一番大切なものに、今、気づいたのだ。
こうして、シンとアヤの短いストーリーは、終わるのであった。人によっては、シンはアヤに認められて、立派な第一線のトップランナーになって、はじめてパーム国に帰るべきと感じるであろう。だが、シンは今この瞬間の一番大切なものに、、はかない雪を見て気づいたのだ。帰国して、アヤと愛を育むシン。もちろん、陸上も続けている。そして、時々、日本を懐かしみながら、ショートショートを書いている。テーマは、生きる人と人の人生勉強について。シンは向上心がない人は駄目だと思うのだ。
カチューシャ
森本真貴は、俺がよく行くラウンジに勤めている娘だ。俺は立花エイジ。三十五歳。真貴は、三十歳である。真貴は大人だ。少なくとも俺よりは。俺は真貴と話す時、アドバイスを受けたことはあるが、アドバイスしたことがない。一度、「俺達、親友だね」と言ったら「えっ」と驚いていた。彼女は男と女の間には友情はないものと考えていた。それは今も同じ考えらしい。俺はそれでは淋しいので、友達の末席に置いてもらっている。彼女は最近、タバコを止めた。健康のためにである。少し太ったが、素がいいので、相変わらず美人である。俺は彼女を「マキ」と呼び、真貴は俺のことを「エイジ」と呼ぶ。一回酔って、真貴の胸を揉みまくった。
「エイジは、私のことを飲み屋の女だと軽く思って、そんなことするんでしょう」
俺はその時、ハッと思い何も言い返せなかった。真貴とは、もう十年以上の付き合いだ。
その間、「付き合ってくれ」とか、「結婚してくれ」とか言ったが、
「本気で思ってないでしょう。どうせ、どこの店でも同じようなこと言っているんでしょ」と切り返される。
「・・・・・・・・・・・・・・」
「あの娘何しているかな」と真貴。
「あの娘って誰」
「エイジが夢中になっていた娘」
「・・・・・奈々ちゃんか。幸せに暮らしていると思うよ」
ある日、奈々ちゃんが勤めていたラウンジで「エイジさん、今度の土曜日、食事しませんか?」と言った。
俺は驚いた。奈々とは以前、同伴したことはあるが、同伴以外では会って食事をしたことがなかった。
俺はなぜかドキドキした。なぜなら、奈々のことが前から好きだったから。俺は真貴に電話した。
「エイジ、できるだけのバックアップをするから、食事が済んだらカチューシャ(真貴の勤めているラウンジ)に連れてきて」と真貴は喋った。
「ネックレスでもプレゼントしようかな」
「はじめは花束でいいんじゃない」
俺はこの前、先輩に連れて行ってもらった寿司屋に予約を入れた。
そして、土曜日。
待ち合わせの公園に奈々が時間、ピッタリに来た。
「よっ!」俺は奈々に目配せをした。
「ジャストだね」と奈々は言った。
「俺、テキトーに予約したよ」
「好き嫌いないから、どこでもいいよ」
それから俺は緊張して、寿司屋で何を喋ったのか覚えていない。
トイレで真貴に電話した。
「もしもし、食事、終わったよ。これからカチューシャに行こうと思うんだけど」
「あー、何か、私までがドキドキするわ。うまくいけばいいね」
カチューシャはママ・登紀子と真貴の二人でやっているラウンジだ。
金曜日に麗子というアルバイトの娘が入る。
今日は土曜日だ。俺は食事を終え、うわの空で奈々ちゃんと繁華街を歩く。
「エイジさん、カチューシャって店はどこらへん?」
俺は上を見上げてカチューシャを探す。
「あぁ、ごめん、ごめん、もう着いちゃった」
俺はサファイア館という大きい建物に入り、エレベータに乗り、五階を押す。
「エイジさん、常連なんでしょ。楽しみだなぁ」
「さぁ、入るよ」俺はホームグラウンドに着き少し安心した。
俺は、勢いよく目の前のドアを開けた。
「いらっしゃい」
「はじめまして」
すでに客はいたが、すぐに奈々はママ、真貴、他のみんなの人気者になった。
奈々は明るく、ひょうきんで、癖のない娘だった。
「素敵な娘ね」真貴が俺の耳元で囁く。「へへっ」俺は自分のことのように照れる。
「もう告白しちゃいなさいよ」
俺は再び動悸がし始めた。
三十分も経った頃、ママが奈々に「何か歌って」とせがんだ。そういえば、奈々の歌、聴いたことがなかったな?
「私、歌えるジャンルが限られているんです」
「どんなジャンルならいいの」とママ。
「ボサノバとかジャズなんか得意ですが」
「凄いじゃない。歌って、歌って」
カチューシャ全体が奈々への歌ってコール。
「じゃあ、大好きな曲、ミッドナイトデジャブー(色彩のブルース)をお願いします」
奈々が歌い出すと急にカチューシャが静かになった。まるで、プロの歌手みたいだ。
「すごーい!」みんな奈々の歌声に驚嘆した。
そして、歌い終えた。
大拍手!最高!
誰かが言った。
「もう一曲、歌って」アンコール!アンコール!
それに応え奈々は、「アントニオの唄」という珍しい曲(ボサノバ)を歌った。
これまた、奈々の透明な歌声に、みんな絶叫した。
真貴が俺に「そろそろ決めてよ」と耳元でGOサイン。
ドキッ、ドキッ、ドキッ。
「奈々ちゃん、付き合ってください」
だが、その一瞬前に奈々が叫んでいた。
「来月、私、結婚します!」
俺の頭の中は真っ白になった。
俺は無意識に大声で叫んだ。
「みなさん、奈々ちゃんが結婚します。祝ってください!奈々ちゃん、おめでとう!」
気づいたら、エイジ、オン・ステージ。
乾杯・バンザイ・バタフライ・お嫁サンバ・ダンデライオン・・・・・・・・・。
「仕方ないか」と真貴が言う。
深夜になり俺は、奈々をタクシー乗り場まで連れて行った。
「エイジさん、今日はホントに楽しかったです。ありがとうございました」
「こちらこそ、お幸せにね、奈々ちゃん」
二人はお別れのアイコンタクトをして別れた。
『でも、なぜ奈々は俺を食事に誘ったりしたのだろうか?よっぽど結婚が嬉しくて人に伝えたかったのだろうか。それは、奈々にしかわからない』
俺は再びカチューシャに戻り必死に泣くのをこらえていた。
ぼそりと真貴が言った。
「あの時、エイジには悪いと思いながらも、おかしくてね。いきなり『結婚します』だもんね。エイジ、オン・ステージでは、エイジのやさしさを感じたよ」
俺は極度に悲しくておかしくて・・・・・・しまいに涙声で笑っていた。
男と女には友情は成立しないと真貴は言うが、今、エイジの心に『口では言わないけど、エイジ、あんた、いい男よ。恋愛には少し疎いけれど』と真貴は心で話しかけていた。『すべてがお互いに人生勉強なのよ。お互いに大きな強い人間なろうね』と。