季節は寒い冬のある日、俺は様々な思い出とこれから起こる未来を考えながら退院した。

お金で買えない体験をしたと言って退院した人もいれば、いい人生勉強をしましたと言って退院した人もいた。人生には二度と体験できないことがある。人生には二度と経験できないことがある。
 それは思い出に残るキラキラとした出会いである。その時期が早過ぎても遅過ぎてもダメだ。それは、これからの人生においても同様であると思うし、同様であって欲しい。俺は、あの頃のことは決して忘れないし、忘れられない。
 俺の十九歳という青春の中の一ページ。なんでも自由にできて甘えていた日々。
 ただ一言、楽しかった、苦しかった。俺はベッドの上で何度涙を流しただろう。俺は病棟の硬い壁に何度頭をぶつけただろう。
 何を一人で悲劇の主人公を気取っているのだろうか。誰も何もしてはくれはしない。自分で立ち上がるしかない。それは誰もが同じことなのだ。
 これから俺は世間に順応していかねばならなかった。朝早く起きてから、勤めがある両親を送り出し、一人、机と向き合って勉強する。たった昼までの時間がとても長く感じられた。昼休憩は一時間。
 ラーメンとか焼き飯を作り、テレビを見ながら昼食をとる。そして勉強再開。流石に五時頃になると集中力がとぎれてしまう。後は流行りの音楽を聴いたり、マンガや文庫本を読んだり。そして、テレビを観て風呂に入る。
 その頃には親父やお袋が帰ってくる。俺は部屋でゴロゴロと今日の復習をする。こんな毎日がいつまで続くのだろうか。果たして俺はどこへ行くのだろうか。
 教えてくれ、アラレちゃん。もう二度と会うことはないだろう。俺が唯一愛した笑顔が似合うキラリと素敵な女性。
時々、俺は感傷にふける。アラレちゃんはどうしているだろう。ユリリンはどうしているだろう。中村さんはどうしているだろう。この広い空の下、現在この時に俺と同じように生きていると信じて。だけれども新しい出会いが次々に待ち受けている。喜ばしいことだけれど、なにかしらちょっぴり淋しい。
 俺は今、出会いの大切さを痛感している。ある頃、ある時には気軽に毎日会って話をする。それが自然なのだ、それが当たり前だと思っていた。けれど、ある時を境にして、次第に遠ざかっていき、二度と会えなくなってしまうのだ。
 アラレちゃん、五人の看護学生達、佐藤、中村さん、ユリリン、加藤さん、菊川悟、亡くなった友人といった面々。
当たり前の話だが、亡くなった友人とは絶対にもう二度と会うことはできないのだ。
 俺は本当に、これからどこへ行くのだろうか………。そうだった、誰も教えてくれはしない。俺は何を甘ったれているのか。それは俺が決めること。
「篤君は、どうもほっとけないな」
 俺の心の中で中村さんがニコッと微笑む。

そう、どこへ行くかは俺自身が決めなければならないことなのだ。俺自身のために。とにかく俺は両親に迷惑をかけすぎた。俺の将来を心配し、両親はボロボロになって泣いていた。

俺くらい親不孝な人間はいない。俺のために、涙を流している両親を見て、俺はどうしていいのかわからなかった。ただ今ここで、すいませんでしたと言うしかない。この頃になって常々思うことは、俺はいつもまわりの温かい人々に包まれていたという事実だ。
 どうしてだかわからないが、後になってみれば素晴らしい人達がまわりにいた。
 それなのに、いつも悩んでばかりの贅沢な自分がいた。近頃そういう自分にやっと気づいて、まるで目から鱗が落ちたようである。
 メーテルリンクの『青い鳥』のように、目の前にある幸せに気づかなかった俺。
 フッと清々しい風が吹き抜ける。よし、やるぞ!俺の心に火が灯った。これから先も贅沢な俺は、何度も何度も悩み続けるかもしれない。
 アラレちゃんも、もういない。だけど俺には俺がいる。そう、俺には一生、俺がいるのだ。誰だって、これから先、自分は一体どうなるのだろうという危機感を覚えることはあるだろう。
 そんな時、必ず通り抜ける道がある。自分自身を信じて生きていこう。一生懸命、現在を生き、たまに過去を懐かしみ、光り輝く未来に繰り出そう。

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「小説とはいかに生きるべきかを書いたものである」と、高校の現代国語の先生は以前そう言っていた。
 大学生になって、それを思い出し、小説を本格的に読み始める。生きるとは何か、答えは小説の中にある。小説の方向性は「いかに生きるべきか」を求めたものである。ゆえに、小説のベクトルは「いかに生きるべきか」を求めたものである。なぜなら、ベクトルとは方向性であるから。
 いつものようにあれこれと考えていた時、灼熱の中、ひたむきに汗だらけになってロードを走っているランナーを見て、俺の今までの考えが吹き飛んだ。見事に俺のベクトルは崩壊した。生きるとは、まわりくどい理屈ではないのだ。
 今までの「いかに生きるべきか」というベクトルは崩壊し、無心で身体を動かしている姿が生きていることなのだと実感した。ありのままに山を登っている姿。ありのままにヨットを走らせている姿。また生活のひとコマひとコマを充実させて生きている姿。今、ひとつのベクトルが崩壊し、また新たなるベクトルが再生された。人間の成長ととに、繰り返し繰り返し、新たなベクトルは再生される。
 そして、俺は今日も林道でマウンテンバイクを走らせている。俺は今日も林道でありのままに生きている。

                           『ベクトルの行方』完