手の中の恋
木村健は、若い頃、精神的に健康を害した時期があり、三ヶ月ほど病院に入院していたことがあった。一ヶ月くらいの期間、井上優子さんという看護実習性の娘、といっても健よりほんの少しお姉さんだったが、彼女が健に付いて身辺の色々な世話をしてくれた。
すぐに仲良くなり彼女の好きだった男性の話を聞かせてもらったり、その男性に対しての思いを込めたノートを見せてもらったりした。美しい文章が、とてもかわいらしい字で書かれていた。その中に素敵なポエムも書かれていた。健は彼女のポエムに心を奪われた。
「今もその男性が好きなの?」と健。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
しばらく井上さんは無言だった。
「ごめん。ちょっと失礼だったかな」
「ううん、どっか私の知らない遠くに行ってしまった。もしかしたら、もう誰かと結婚しているかも」
「そうか。俺、中三の時に凄くかわいい娘と同じクラスになったんだ。好きだけど、何も話せなくて別々の高校に行った。そして、他県の大学へ進学した。よく今でも、その娘のことを思い出すよ」
「ふーん、健クンも私も、もし告白していれば、今とは違う人生を歩んでいたかもしれないね」
そして二人は、いっしょに夢中になって共同のポエムを作ったりした。一作品だけど『手の中の恋』という中々かわいい詩ができ、二人だけで、やったね!と盛り上がった。
〔手の中の恋〕
少女の手の中に
恋がありました
手を開くと
飛んで行きそうな
そんな恋がありました
少年が微笑んで
手を差し出したので
少女は、少しためらってから
手を開いて、差し出しました
すると恋は本当に
飛んで行ってしまいました
そして二人に愛が芽生えました
彼女は明るくひょうきんで、まんまる眼鏡をかけていて、その眼鏡が「ドクタースランプ」に出てくるアラレちゃんの眼鏡にそっくりだったので、健はいつも彼女のことを「アラレちゃん」と勝手に呼んでいた。
コンタクトレンズにしたら、より綺麗になるのにと思ったが、アラレちゃんだからやはりまんまる眼鏡が必要だなどと、一人で勝手なことを考えたりした。とても素敵な女性だった。健が恋するのも無理はない。
季節がちょうど夏だったので病院の近くの公園で盆踊りや宝探しをやった。ホント楽しかったな。やがて一ヶ月が過ぎ、アラレちゃんはいなくなってしまった。アラレちゃんが病院に来た最後の日、健は許可を得てアラレちゃんのノートを写していた。
そのうちに手が痺れて、うまく字が書けなくなった。「貸して」とアラレちゃんは見るに見かねて、健からボールペンとメモ帳を取ると、自分で自分の詩を写し始めた。「最後にこの詩を書いて」と健は言った。そのノートは素敵なポエムの宝庫であった。
あァ、もう今日でお別れだ。本当にもう会えなくなるんだ。一度実習の合間を見計らって会いに来てくれた。健は彼女に、その時使っていたアラレちゃんのマンガが書かれてあった湯のみを洗って渡した。ジーパン姿のアラレちゃんは、とても眩しかった。
「元気そうだね」アラレちゃんはニコッと微笑んだ。彼女があまりに美しすぎたのを覚えている。健はその時、なんて答えたのか覚えていない。ボーっと彼女に見とれていたのかな。それ以来、残念ながら彼女とは会っていない。何度も、もう一度会いに来てくれないかと願ったけれども。 実をいうと大人?になってからの健の初恋の女性、それがアラレちゃんだ。でも、もうおしまい、さようならアラレちゃん。
病院の方針としては、実習生が患者と別れたら、それから会うのはあまり好ましく思ってなかったみたいである。特に患者が退院してから患者同士で付き合うのが。常に前を見て、病気じゃない人達と健全に交流していくことを好んでいたようだ。
時は遥か遠くに流れ流れて。あァ、それは、過去の過去の物語。今健は割合、適当な日々を送っている。週末に仲間と遅くまで飲んだり、ギャンブルしたり、家にこもって読書したりしている。そして、一年に一回くらいアラレちゃんのことを思い出す。今は今で楽しいが、急にあの頃に戻りたくなる。体はこわしていたが、まだ若く心から無邪気に笑えたあの日々。未熟で幼く遠くを見つめ孤独の中、将来に不安を覚えつつも、楽しかった。
闇と光、色んな感情が渦巻いていた。健はアラレちゃんがいたから救われた。未来の希望が持てた。同世代の美しき異性とのふれあいが心を新たにさせてくれた。アラレちゃんとの一つの笑いが暗い気持ちを全部吹き飛ばしてくれた。アラレちゃんは、健のことを一度でも思い出すことがあるのだろうか?それは誰に訊いてもわからない。それに今、街角で会っても気づかないかもしれない。たぶん、きっと。想い出は永遠に、想い出だからこそ輝いているのかもしれないね。青春の欠片は今も健の胸の奥底に沈んでいる。