ユダヤジョークでこういうのがある。【ラビ(ユダヤ教の宗教指導者)のところへ二人の男が口論を仲裁してくれと言ってきた。一人が自分の言い分を主張すると「お前は正しい」とラビが言った。もう一人がそれに反対の言い分を主張すると「お前は正しい」と言った。二人が帰ると、ラビの妻が「あの二人は矛盾してるんだから、どっちも正しいなんてことはありえないわ」と文句を言った。するとラビは「お前は正しい」と答えた。】


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人間、何を見るかで、何が見えるかが決まるものである。「何を見るか」の部分が物自体の判断。いわゆる事実判断(いかにあるか)である。

「何が見えるか」の部分が観察者自体の判断。いわゆる価値判断(いかにあるべきか)である。

しかし、「何が見えるか」ということに「制限」が加えられると、正しい事実判断が難しくなる。例えば次のような円筒で考えてみよう。

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我々の「何を見るか」に対する感性の形式(何が見えるか)が二次元の認識までという「制限」が加えられていたとする。
二次元までの認識なら、円筒を真横から見るか真正面から見るかしかできない。
真正面から見ると円筒は円にしか見えない。真横からだと円筒は長方形にしか見えない。制限された認識の理解では、ある一つの対象が円でもあり、長方形でもあるなど有り得りえないことで、まるでアンチノミー(二律背反)のように頭を痛めることになる。

頭を痛めている時、二次元の制限がはずされたとしよう。
二次元の制限された認識では円でもあり、長方形でもあるというのはアンチノミーであったが、三次元では円筒が存在し、円でもあり、長方形でもあるのは何の矛盾もない。円でもあり、長方形でもあるのが円筒なのだ。いわば円でもあり、長方形でもあるのが要件(必要な条件)といえる。
しかし、我々人間の認識できる枠組みは空間・時間までで、二次元の制限があった場合と同様に制限の中で生きているといえる。
これはア・プリオリ(先験的)に何が見えるかは空間・時間までの認識能力しか人間は持ち合わせていないことを意味する。さらに、見るという行為は目で行っており、これは植物が光を感知する能力を持っているのと同様に、光を感知する能力が進化して生まれたものである。
だが、この目でさえすべての光が見えているわけではない。
さらに、物自体の存在する空間・時間というものも絶対ではない。アインシュタインは光速度一定の法則を提唱した。これは光の速さはどんな速さで追いかけてもいつも同じ速さに見えるということだが、これはいくら光の速さを速くしようとしてエネルギーを加えても、変化するのは空間・時間ということだ。速さ=距離÷時間の関係と同様である。
しかし、地球に暮らす我々が空間・時間の収縮を感じることはない。例えば夜空を見上げると星が見えるが、見えている星の中にはすでに無くなっている星もあるのだ。
ここで我々は考えなければならない。
人間がア・プリオリに認識することができるのは一定の条件が満たされた場合であることを。
「真理とは何か」という問いに対し、「認識と対象が一致すること」と考えがちであるが、対象である物自体は、空間・時間の中に存在し、空間・時間も絶対ではなく、物自体もエネルギーに変換可能なものであり、光自体いまだ、波なのか粒子なのかわからない両方の性質を示すものである。
認識にア・プリオリな制限がある限り、我々人間は物自体を完全に認識できないといえよう。 つまるところ認識に対象が従うとしか言いようがない。
どういうことかわかりやすく説明すると、ここでまた、我々の認識が二次元までという制限が加えられ、今度は、円筒ではなく球を見たとする。
球なら真正面から見ても真横から見ても円にしか見えない。
真正面から見る人の認識と真横から見る人の認識は「円」ということで一致する。
しかし、三次元を認識できる人なら認識と対象が完全に一致しているとは思わない。
たまたま、球だから「円」という認識で真正面から見る人の認識と真横から見る人の認識が一致しているだけである。
認識にア・プリオリな制限がある限り、我々人間は物自体を完全に認識できないというのはこういうことである。
球であるということは、二次元の制限を加えられた人間たちの円の認識と対象が一致するための条件なのである。
言い方をかえると、「真理(円)とは何か」という問いに対し、認識と対象が一致するためには物自体が球であることが二次元の制限を加えられた人間たちには必要な条件だということだ。

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知り得ないことと、有るもの・有らぬものの判断は違うと思うが、ユダヤジョークと同じで、フレーム(基準・有るもの)を考えなければ判断が不可能である。