戦後、ドイツでは「人間の尊厳の保護と尊重」の保障が国家の責務だとされ、人間の尊厳を保障するか否かが形式的法治国家であるか実質的法治国家であるかのメルクマールであるとされた。しかし、この人間の尊厳とは何か?がわからなければ、形式的法治国家であるか、実質的法治国家であるかの判別はできない。

 

 

 

  私も人間の尊厳について色々考えたが、「尊厳に値しない人間もいる」という考え方の人がいるのも事実である。

  自分では尊厳に値すると思っていても、他者からはそうでないこともある。これは、生命でもいえる。生命は、自分にとっては掛け替えのないものでも、他者からは取り替え可能な場合があるものだからだ。
 ツイッターで、「弱者に寄り添う=施し」上から目線、エリートの自己満足みたいな批判のツイートがおすすめによく出てくる。アメブロでなぜか「世間はおまえらの母親ではない」の記事が何年も1位にくるみたいに…。
 

 

 

 芥川が「君たちも大抵蟹なんですよ。」と述べているが、その時代でも「自分たちは蟹じゃない」と思ってる人の方が多かったんだろうな・・・と思う。弱いから、劣ってるからと言う相対的な理由で、尊い、尊厳に値するなどが決まるものでもなかろうに・・・と思う。

 
 
 
 そもそも、基本的人権というものは前国家的状態を想定し、個々の人間の生来的な権利を認めるといものであるから、生命の権利に対しては、私人間であってもお互いに尊重すべき義務があるといえるし、自分の権利のためなら他者の権利(生命)を奪っても構わないという関係を想定しているわけではない。
 明治憲法においても、枢密院の会議で、「臣民には責任はあるが権利はない」という文部大臣森有礼の主張(臣民分際論)に対して、議長の伊藤博文が、「憲法をつくる目的は君主の権力を制限すること、そして臣民の権利を保護することにある。権利を宣言せず責任だけを宣言するなら、憲法をつくる必要はない」旨の反論を行ったが、結局のところ、森有礼、加藤弘之、外山正一らといった社会ダーウィニズムを唱える一派により、臣民は責任(義務)を負わされるだけ、すなわち、国家の命令には服従するしかない関係で、国民の権利は否定された・・・。

 

 「表面上消え去っている国家主義なども、いつ復活してくるかわからないのです。」と岩崎氏は述べているが、今まさに「復活の時が来た!」と封印を解かれた魔物のごとくうごめいている・・・。

 

 社会ダーウィニズムだと権利は強者、優秀な者のみに与えられるものであり、それが正義とされるが、基本的人権は相手に何かをしたから生じるという性質のものでない。現代は経済も「もやウィン」や広告で「進化」という言葉をよく耳にするように社会ダーウィニズムに支配され、この世界は強者が弱者を支配する場のようになってしまっているが、それでも、基本的人権を認めるなら企業には安全配慮義務が生じるし、人間的価値を含まないような契約なら公序良俗に反するので無効となるものなのだ。義務に重きをおかれる縦割り社会でも、相撲部屋で親方が弟子をリンチで殺した事件のように、弟子をどう扱おうが親方の自由というものではないだろう。

 

 本当に、弱いから、劣ってるからと言う相対的な理由で、尊い、尊厳に値するなどが決まるものでもなかろうに・・・と思う。