もへもへさんに返信をツイートしてみた。

 

 

 宮台真司氏や大田区議会議員_おぎの稔氏みたいにブロックされずに、「いいね」(内心では「死ね」と思われてるかもしれないが)で返ってきた。

 

 

 「人は見たくないものを見ないようにしてきた」という人とは反対に、「人が見たくないもの」を人間の本質または本性のように説くのはいかがなものかと思う。

 J.S.ミルは、「人間としての尊厳を盲目的な快楽により捨て去ることは家畜に落ちるようなもので、まさに、このような表明をする者は、満足した豚に似ており 『満足した豚であるよりは、不満足な人であるほうがよく、満足した愚か者であるよりは、不満足なソクラテスであるほうがよい』。なぜなら、愚者は物語の片面しか知らないが、賢者は両面を知っているから」と述べている。また「高級な喜びと低級な喜びを区別する方法はただ一つ。両方を経験した人が、それを好むかどうかである」とも述べているが、ニーチェも同様に、「悪魔を放り出そうとして、自分のなかの最善のものを放り出さないように注意せよ」と述べている。

 日本においても、西周助(のち周)はNatuurregtを「性法学」と訳しているが、これは「自然」を人間の「本性」・事物の「本性」という意味で理解したからだ。

 人間の「本性」として位置付けるべきもの(人間の定義として内包すべきもの)は、利己的なものなのか利他的なものなのかといことでも、われわれの社会生活に大きな影響を与える。

 

 人間は理由に基づいて行動するとき理性的と呼ばれるが、その動機といえる理由は 、人間としていちばんたいせつなものを含むべきだと思う。