ツイッターで#自己責任がトレンド入りしていた。

 どうやら「相棒」というドラマの中のセリフに関して盛り上がっていたようである。

 なんか真山仁氏の話思い出した。

 

 新自由主義における古典的な市場原理主義は社会スペンサリズムと呼ぶべきものであるが、このような経済は右京さんのいうようにどこの国でも「あなたとあなたのお友達の経済にしか思えませんね」というところで均衡してしまう。

 このような世界では、囚人のジレンマのようにみなが利己的に振る舞うのが正解となり、同じ食われる側の動物でも、「ライオンより早く走れなくても(人間の場合、ライオンには忖度して)、おまえより早く走れればいいだけさ」という考えが正解となる。

 囚人のジレンマの正解が、人間の本質だと主張することは、人間というものの定義のリフレーミングと言えるが、このような言葉遊びのようなリフレーミングで人間に本当に必要な資質といえるものの本質が変わるものであろうか?。

 

 「人間に本当に必要な資質」の記事の中でも【偽装・隠蔽でも「勝てば官軍」「結果が全て」などと言って、日本でも上に立つ人間には必要な資質で許されると肯定する輩がいる。

『智恵について』(1601年)というフランスの哲学者ピエール・シャロンによって書かれた本にそっくりな言葉が記されている。

「個人にとっては悪徳であるような隠蔽は、君主にとっては極めて必要不可欠である」

果たして、上に立つ人間ならこういう悪徳は許されるべきものどころか本当に必要なものなのか?。

マキャベリもこういう言葉を残している。

「これまで多くの人は、現実のさまを見もせず、知りもせずに、共和国や君主国のことを想像で論じてきた。しかし、人が現実に生きているのと、人間がいかに生きるべきかというのとは、はなはだかけ離れている。」

「君主は前述のよい気質を何からなにまで現実にそなえている必要はない。しかし、そなえているように見せることが大切である。いや大胆にこう言ってしまおう。こうしたりっぱな気質をそなえていて、後生大事に守っていくというのは有害だ。そなえているよう思わせること、それが有益なのだ、と。」

果たして、よい気質は見せかけだけでよいのか?。】と述べたが、偽装・隠蔽のようなリフレーミングなど復讐の神の裁きの対象となるべきものではなかろうか?。

 

 しかし、元日ドラマからリフレーミング・・・。

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 そら、視聴者を見ず、企業案件で元日ドラマからリフレーミングしてたら視聴者も離れてユーチューブとかの方に流れるわと思う。

 

 

 相手の立場に自分がいたならという視点で、黄金律【自分が人からしてもらいたいことを人にせよ(肯定形)。自分が人からされたくないことは人にするな(否定形)。】の内、「自分が人からしてもらいたいことを人にせよ」という黄金律の肯定形を重視した教えを教えるキリスト教が、弱肉強食の戦国時代の弱者側の民衆に広まったのは当然だと思う。

 見返りが見込めないような黄金律の教えでも世界に広まった理由について、私は「人間そんな簡単に恩を忘れるものではない。その子供たちが大きくなり、自分と同じような境遇の子供たちにまた同じことをする。」ただそれだけのことだと思う。

 ほんま、ソーカルのでっち上げ事件を見てもわかるように、ネオリべの主張する人権(よい気質)は見せかけだけだと思う。

 マック憲法と揶揄されるのがわかる。

 

 

 

 しかし、「憲法改正の歌」も「バナナ大臣はえらいのうた」みたいで苦痛をおぼえる。