軍産複合体のランド研究所が考えた抑止力論のベースになっている「ゲーム理論」の「囚人のジレンマ」のような考えは共命鳥のような状態を引き起こす・・・。

 

 本当に、お互いの願いがかなって「そして誰もいなくなった」と嗟嘆するのは莫迦莫迦しい話である。

 「固いものは死に連なり、柔らかいものは生に連なる」という老子の言葉ご紹介したことありますが、まさにその言葉通りのことがいつ現実に起こっても不思議ではないのだ。

 「国家は社会ダーウィニズムの社会のように欲望の奴隷である強者(または多数)が弱者(または少数者)を支配する場ではないし、社会における競争は他人を淘汰するためではなく能力を磨くため必要なものだと思う。」と書いたことあるが、「みんな違う」と思うと国家は欲望の奴隷である強者(または多数)が弱者(または少数者)を支配する場へと変貌する。

 「個人の尊厳みとめる現代の方が、相手の人格貶める言葉使ってる気がする。」とツイートしたが、本当に自己矛盾を引き起こしており、「無為自然」という言葉の通りだと思う。

 【日本では悪役に限らず、香港のデモのように善役も覆面すること多い。ツイッターでも匿名について色々話題になっているが、「誰が言ってるか」で判断して、自分で「何を言ってるか」を判断できない人間が多いからだろう。】

 と「復讐の神」の記事で述べたが、「モトケン」とかいう元検事の弁護士でもこの程度の認識である。

 

 

 
 

  「99%有罪」の日本の司法は冤罪を生み出しても治安のためなら構わないものとなっているが、そこに何の個人の尊厳があるのだ?と思う。

 

 「モトケン」とかいう人も、 個人の尊厳を基礎にとか自己紹介でしてるが、「あんたが一番個人の尊厳基礎にしてへんやん?」といいたくなる。

 

 ほんま、お釈迦さまでもコスプレしたい時あるかもしれへんのに・・・。